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「Io ando. Tu andai. ... 」

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】
【これは個人的随想です。知識の提供でも意見の主張でもありません。】

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わたしが小学生か中学生のころ (1970年ごろ)、親が買ってくれた少年少女文学の本のうちに、イタリア語から日本語に翻訳されたものがあった。本の題名も著者名も、フィクションだったかノンフィクションだったかも、話のすじもおぼえていない。ごく一部分、訳者が日本語におきかえずにイタリア語 (ただし正しいイタリア語ではないとのことだ) が書かれていたところだけ、なぜかおぼえている。

小学生ぐらいの子が、国語の授業で動詞の活用を暗唱させられる。(ここでいう「暗唱」は、定型のことばを、文字をよむのではなく記憶にもとづいて、声にだしていうこと。) なんという動詞だったかはわたしの記憶からきえていたが、andare にちがいない。その子は「Io ando. Tu andai. ... 」ととなえた。それはまちがった解答だった。そこには注がついていて、正解がかいてあった。それもおぼえていないが、いましらべると、「Io vado. Tu vai. ...」だ。

これは不規則活用だが、日常にでてくることばだから、日常の話しことばを反省すれば正解できる可能性がたかい。その本の文脈をおぼえていないが、(いまのわたしが) 想像すると、まちがえた子は、イタリア語とはちがう言語の話してだったのだろうか。方言の話してで、その日常で「行く」にあたることばはこれとはちがうものだったのだろうか。「行く」ことをあらわす動詞についてきかれたことに気づかず、規則活用の演習とおもったのだろうか。

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それから6年ほどあと、大学1年生のときフランス語の初級の授業をうけた。インド・ヨーロッパ諸語には動詞の活用 (conjugation) がある。それには、直説法と仮定法、時制 (現在と過去)、などもある。しかし、いちばん日常的な「直説法 現在」にかぎっても、動詞の語尾が主語の人称と数によってかわり、それをおぼえるための定型がある。【英語では、「主語が三人称単数のばあいに動詞の語尾に s がつく」とおぼえさえすればよいので、定型を順によむことはしない。英語の活用はヨーロッパ諸言語のうちではめずらしく単純になったのだ。】

最初に出てきた動詞は parler (話す) だったとおもう。「Je parle. Tu parles. Il parle. Nous parlons. Vous parlez. Ils parlent.」 を声をだして読む。いくつか「-er」でおわる動詞について同様にやる。

そして aller (行く) がでてくる。「J’alle. Tu alles. . . . 」 となると期待するがそうではなく、「Je vais. Tu vas. Il va. Nous allons. Vous allez. Ils vont.」という不規則活用なのだ。これはひとつの原型の変化形としては説明しがたい。ふたつの別々の動詞がいりまじり、やくわり分担するようになったものにちがいない。

いま (Wiktionary 英語版で) 語源の情報をさぐってみると、フランス語 aller には、中世ラテン語の alare と vadere から、イタリア語 andare には andare と vadere からきたものがまじっている。このうち vadere は古典ラテン語でもその形だ。alare や andare の語源はよくわからないが、古典ラテン語にある ambulare からきたという説がある。

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日本語の国語文法にも、動詞の「活用」とよばれているものがある。その文法的やくわりは、ヨーロッパ諸言語の conjugation とはだいぶちがう。しかし、それをおぼえるために定型をつくって暗唱することがあったというところはにている。

日本語の学校文法でいう「動詞の活用表」は、動詞のおもな変化形を、古文 (「文語文」) の「四段活用」のばあいに語尾がアイウエオ順になるようにならべたものを現代文 (「口語文」) に適用しただけのものだ。時制や、「命令法」「仮定法」などというときの (文法学用語の)「法」と関係はあるのだが、文法学的に分析された機能による表ではない。また、過去時制または完了をあらわす「た」がつく形は活用表に直接ふくまれておらず、「連用形」のあとに「た」がついたものとされているが、そこではさらに「音便」とよばれる変化があり、それは活用表を知っているだけではわからない。

それにしても、個別の動詞がいまとるべき形についてまよったときの手がかりとして定型をおぼえていることはやくにたつ。わたしは1970年ごろの学校の授業で活用を暗唱させられた記憶はないが、上の世代の人たちがとなえていたのをたびたびきき、自分がつかえる道具にくみこんでいた。

現代日本語の動詞のほとんどの「活用」は、「五段活用」と「一段活用」のふたつの定型のどちらかにおさまる。「する」と「くる [来る]」だけが不規則で、「変格活用」とよばれている。(つかわれる頻度がとても高い動詞にかぎって、複数の方言の形がいきのこり、やくわり分担をするようになったのだろうとおもう。)

そこで、あのイタリア語の話を、日本語の動詞の「活用」の話におきかえることができる。翻訳として正確ではなくなるが、わたしのような多言語に関心をもつ子どものほかの、おおくの日本語話者に状況をつたえるには、そのほうがよかったかもしれないとおもう。「くる」の活用をのべよ、といわれた生徒が「くらない、くります、くる、くる とき、くれば、くれ」とこたえるのだ。(このこたえは、「糸をくる [繰る]」の「くる」の活用としてはただしいから、問いがそれでないことを明確にしておく必要があるが。) 「来る」と andare とが、同じではないが同じたぐいの意味をもつことばであることがちょっとおもしろい。

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(わたしが大学生のころ) 「音便」の件をふくめると、「行く」も不規則活用する動詞である (ことに気づいた)。カ行五段活用の代表として「書く」をとることができる。学校文法では音節単位で語幹と語尾をくぎるが、音素単位で、語幹が「kak-」で語尾が「-u」とみたほうがよいとおもう。これに「た」がついた形は、本来は「kak-i-ta」だが、語幹の最後の「k」が消えて「kaita」となる (いわゆる「イ音便」の類型)。この規則にしたがえば、「ik-u」+「ta」は「ik-i-ta」から「iita」になるはずだ。しかし実際は「促音便」になる。ひとまず促音 (かなでは「ッ」) を「Q」であらわせば「iQta」、ローマ字表記は「itta」だ。「ik-i-ta」から「i」がきえて「k」がのこったとすれば説明可能だが、カ行五段活用のうちでそうなるのは、わたしの気づいたかぎりでは、「行く」だけだ。

「言う」に「た」がついたものも「itta」になる。「言う」の活用の型は、「iw-」を語幹とする「ワ行五段活用」とみることができる。これに「た」がついた形は「iw-i-ta」であり、「wi」は現代語では「i」に合流しているから、「iita」になるはずだ。しかし、ワ行五段活用のばあいは、規則的に「促音便」になる。ワ行五段活用が古文の「ハ行四段活用」からきており、語幹のおわりの「w」は、むかし「p」にちかい破裂音だったことがあるにちがいない。古語と現代語の形をまぜた不正確な表現になるが概略だけのべれば、「ip-i-ta」から「-i-」が消えて「iQta」、ローマ字表記は「itta」になるのだ。

「行く」+「た」は、「iita」となったところから、「言う」+「た」にならった道をたどったのだろうか?

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言語のうつりかわりのうちには、(英語でおきたように) 活用が単純化されることがよくおこる。不規則活用すべきところを規則活用の形をつかう人が、孤立していれば、その人がまちがえたといわれるだけだが、まとまった人数になれば、そういう形もあるのだ、ということになるだろう。やがて規則活用をする人が多数になって、文法標準もかわっていくのかもしれない。

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これまで書かないでおいたのだけれど、ヨーロッパ諸国で、動詞の活用をはじめとする語形変化をおぼえるための定型としてつかう例文を paradigm という。クーン [Thomas Kuhn] は (いまのわたしの理解にもとづく表現をすれば) 〈科学者は専門分科ごとに集団となっており、集団は例題集を共有することによって知識体系の基本を共有している〉とかんがえた。それで、1962年の本で、わたしの〈...〉の表現で「例題集」としたところを paradigm と呼んだのが、科学論での「パラダイム」ということばのはじまりなのだ。クーンは、そのことばを「知識体系の基本」にあたるところまで拡張してつかった。のち (1970年ごろ) に、意味がひろがりすぎたことを反省しているが、このことばはクーンのおもわくをこえてつかわれている。パラダイムということばの意味は文脈によってちがいうるので、わたしは、そこでの意味をきちんと説明できるばあいにはつかうことがあるが、そうでなければつかわないことにしている。