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「グローバル・リスクとしての気候変動」シンポジウム (2014-07-20)から

2014年7月20日、科学社会学会と国立環境研究所によって東京で開かれたシンポジウム「グローバル・リスクとしての気候変動」http://www.sssjp.org/news/4 に出席した。わたしにとってこの題目の行事は多すぎてきりがないのだが、A Vast Machine [読書ノート]の著者 Paul N. Edwards 氏と会う機会だったので、ぜひ行こうと思った。

わたしは討論のセッションで何か発言しようかと思ったのだが、考えがあまりまとまらず、発言せずに終わった。あとの懇親会でEdwardsさんと少し話した。

ここでは、講演中とっていたメモを参考に、講演の要点と思われたこと(わたしの表現で)と感想を述べる。

住 明正さん(国立環境研究所理事長、気象学)の話は、基本的には、地球温暖化に関する科学の紹介だったと思う。

しかしその前に、東日本大震災から(とくに科学者が)受けたショックに関する話があった。
そのひとつは、多くの人びとが専門家に対する信頼をなくした、信頼をとりもどすのはなかなかたいへんだ、ということ。
とくに、気象学者は「情報を隠した」と非難された。実際には、不確かなシミュレーション情報を出すことを抑制したのだが。情報はなんでも隠さず出すべきだという主張と、あまりに不確かでそれに従うと新たなリスクが生じるかもしれない情報はおさえるべきだという主張は、どちらももっともなところがあり、社会としての判断はむずかしい。

もうひとつは、確率が低くても甚大な被害をもたらしうるリスクをあらかじめ考えておくべきだということ。これは地震・津波に限らず気候変化についてもそうなのだ。【ただし、時間との兼ね合いでしかたなかったのだと思うが、気候について、確率の高いリスクと確率は低いが重大と思われるリスクとして、それぞれどんなことが考えられているのか具体的に示されなかったので、聞き手には趣旨が伝わりにくかったと思う。】

それから、社会の中で利害が異なるステークホルダーが、情報・知識を共有することが重要である、という話になった。これはEdwardsさんのいう知識インフラストラクチャーとほぼ同じことだと思う。地球環境の観測やシミュレーションもそこへの情報・知識の提供として位置づけられる。そのさらにインフラストラクチャーとしての計算機資源も重要だ。住さんを含む日本の気候モデル研究者は、雲解像大気モデルに重点をおいている。これには大量の計算機資源が必要だが、それでも雲を表現することでよりよい知見が得られると思うからやっているのだ。【ただし、雲の表現によってシミュレーション結果の見かけが観測に近くなることは示されたものの、リスク評価への有用性がどのように上がると期待しているかの説明は、おそらく講演時間のつごうで、出てこなかった。】

Paul N. Edwardsさん(Michigan大学)は、知識インフラストラクチャーを主題とした話をした。知識インフラストラクチャーは、情報インフラストラクチャーといわれるものを含むが、むしろそれを使って働く人びとの組織・制度が重要な要素だ。1960年代に世界の気象観測データの共有を可能にしたWWW [2012-04-29の記事参照]はその重要な例だ。

いま、科学のありかたが変わりつつある。これまでは、専門ごとに、専門家の共同体が、学術雑誌などの知識インフラストラクチャーによって、知識を品質管理し、共有してきた。今では、情報インフラストラクチャーの発達によって、(全体のデータ量も多くなったが)、専門外の人も専門のデータを扱うことが可能になり、知識を共有する人びとの集団が開いたものになってきた。より多くの人の批判を受けることによって知識が改善されることもあるが、批判を含むさまざまな情報の質の判断がむずかしいという問題もある。とくに、

  • 専門家が提供する知識の意味を正しく解釈できる【賛成するという意味ではない】ようになるにはかなりの訓練が必要なのだが、そのことが必ずしも気づかれていない。
  • メタデータ(データが何をさすかの説明)を用意する仕事がだれの職務にもなっていないので、データが多くの人にとって実質的に使えるものにならないことが多い。

2000年ごろから、Steve McIntyre氏のブログ名「Climate Audit」に見られるように、専門外の人が(結果が社会的意志決定に使われるような)専門家の研究を「監査」すべきだという考えが出てきた。
McIntyre氏によるMann氏たちのいわゆる「ホッケースティック」を「監査」しようとした活動は、敵対的態度だった。Edwards氏はそれが監査として有効だったかの評価を述べなかった【が、成功とは評価していないように思われた。わたしは、McIntyre氏は、専門家の表現を理解する訓練を受けず、自己流の解釈が正しいと思いこんだ人なのだと思う。】
【Nick Barnes氏たちの】「Clear Climate Code」が、NASA GISSで世界の気温の集計に使われていたFortranプログラムを読んで計算の趣旨を理解しながら(また、細かいまちがいを指摘しながら) Pythonで書きなおし、事実上同じ結果が得られることを示した。これは対象を計算機プログラムに限ったものだが、「監査」の成功例と言えそうだ。
またRichard Muller氏たちは独立に気温集計をおこなった。【これはどちらかといえば気候研究をする「同僚 (peer)」への新規参入だと思うが、Edwards氏は「監査」の同類に含めていた。】
Anthony Watts氏たちの surfacestations.org は、気象観測機器設置場所の状況によって報告される気温の値に偏りが生じているという疑いをもち、市民参加で観測地点の写真を集めて検討した。Watts氏は報告された全国規模の温暖化が現実のものでなくこの偏りによって生じたものだという文書を書いた。それに対して【NOAA気候データセンターのMenne氏たちが】さらにデータ解析をして、設置状況によって気温の値にバイアスが生じることはあるが、気温の経年変化に対するバイアスは無視できるという結果を(査読を経た論文として)出した。(しかしWatts氏の査読を経ていない文書をネットに置いたHeartland Instituteはそれに基づく主張を続けている。) これは「監査」がさらに【この場合、気候の専門家によって】「監査」された例といえる。

Edwardsさんは、ますます公開性が高まることに期待しているようだ。
ただし、「各人は自分の意見をもつ権利はあるが、自分の事実をもつ権利はない」と言い、「trust and verify」という態度をとるべきだと言っていた。

Stewart Lockieさん (James Cook大学Cairns Institute、オーストラリア)の話は、Meesham and Lockie (2012)の第1章で論じられているという科学技術リスクの総論も少しあったが、大部分は、オーストラリアの人びとが地球温暖化をどうとらえているか(調査結果)の話だった。

オーストラリアの人びとは、大部分が気候変化がおきていると思っており、約半分がそれは人間活動起源だと思っている。ただしそう思っている人は減る傾向があるということだ。

「IPCCなどが示す地球温暖化の見通しはうそだ」という「強い否定論」を支持する人はあまり多くない。しかし、(たとえば)「気候は世界にたくさんある不確かなものごとのひとつであり、たぶん心配することはないだろう」というような「弱い否定論」に共感する人が多い。【これは日本でもそうだろうと思う。】

対策について意見を聞くと、エネルギー資源節約、再生可能エネルギー技術開発、気候変化への適応などについては賛同が多い。電力や石油の値段が上がることには反対が強い。排出枠取引や炭素税などについては意見が分かれる。

温室効果気体排出削減には、なんらかの経済的インセンティヴを与える制度づくりが必要だが、いくつかの選択肢があり、どれがよいかは人びとの価値判断によって違う。これをまじめに議論する必要がある。

松本 三和夫さん(東京大学)は、まず、2012年の著書の題名にもなっている「構造災」(structural disaster)という考えかたの話を簡単にした。

話題の大部分は、再生エネルギー技術開発、とくに1980年代の日本で通産省が主導した「サンシャイン計画」の中での海洋温度差発電(OTEC)の事例で、1998年の著書で論じられている件だった。とくに、1984年、いわゆるオゾンホールの発見とみなせる忠鉢 繁氏の報告が出た年に、フロンを使う技術の特許がたくさん出願されたことを指摘していた。たとえ最大の目的が外国の石油への依存を減らすことであっても、環境を意識した事業で、別の環境破壊に思いが至らなかったのだ。【これは皮肉なことではあるが、注意深ければ防げたとは言えないだろう。松本さんも防げたはずだとは言っておらず、環境問題の複雑さの例としてあげていたのだと思う。しかし、「オゾンホール」が知られた以後について、役所の管轄や学術の専門分野の境を越えた認識があれば、もっとうまく軌道修正できたはずだ、といったことは言えるのかもしれない。】

文献 (別ページへのリンクで示したものは省略)

  • 松本 三和夫, 1998: 科学技術社会学の理論。木鐸社。
  • 松本 三和夫, 2012: 構造災 (岩波新書)。岩波書店。
  • Thomas Measham and Stewart Lockie, eds. 2012: Risk and Social Theory in Environmental Management. CSIRO Publishing. [わたしはまだ読んでいない。]