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めがねを忘れた

ある日、講演を聞こうとして、めがねを持っていないことに気づいた。前日も講演を聞いたので(講演する側でもあったのだが)そのときめがねを使ったことは確かだった。前日の帰りに落としてしまったのではないかと心配したが、(上着のときとは違って)家に忘れただけだった。

講演を聞くときにめがねが必要なのは、わたしが聞くような講演はほとんど、講演者がスクリーンに文字や図を表示しながら話をするものだからだ。今ではほとんどの分野の学術的講演(専門家どうしのものでも専門外向けのものでも)でそうなっていると思うが、地球科学の分野では1980年ごろすでにそうだった。1980年ごろはスライドが使われていた。スライドは準備に時間がかかるので、非公式なセミナーなどは黒板を使っていた。1980年代の初めごろからオーバーヘッドプロジェクターが少しずつ使われはじめ、1980年代末には大部分の場合に使われていた。講演者は見せるものを透明シートに用意する。直接手がきする場合と、紙に原稿をつくってコピー機で転写する場合があった。1990年代後半ごろから、パソコン接続のプロジェクターに置きかえられてきた。どんな技術にしても、聞き手は自分から3メートルから30メートルぐらい離れた位置に表示された文字や図形を読むことになる。

わたしは、子どもから若者のころ、幸い、めがねを必要としなかった。中年になってから、目が疲れるので診察してもらったら、乱視だと言われ、めがねを作った。近くも遠くも同じ補正でよいのは珍しいと言われた。しかし実際には手もとの本やパソコンを見るのはめがねなしでさしつかえなく、黒板やスクリーンを見るときだけ使った。その後、そのめがねをかけてもスクリーンの字がよく見えなくなり、めがねを作りなおした。乱視に加えて近視が進んだということだった。

わたしがめがねを持つのを忘れやすい理由として、人生の中でめがねを必要とした日よりも必要としなかった日のほうが多かったことがあるにちがいない。

めがねを忘れた日に聞いた講演は、わたしの専門とは違う分野のものだった。しかし、そこで使われた用語は、日本語も英語も、普通名詞に関する限り、ほとんどわたしが知っていることばだった。ただし、わたしが使っているのとは違う意味で使われているかもしれない。画面を見るだけでは読み取りに自信をもてないが、講演者の声から聞き取れた単語と対応がつけば、画面上の文字も読み取れた気がした。ところが、固有名詞、とくにアルファベットで表記された人名は、ほとんど知らないものだった。しかも講演者は文献の著者としてあげられた名まえを必ず読むとは限らなかった。同じ高さの漢字に比べてアルファベットは画数が少なくて判別しやすいはずなのだが、読み取れない名まえの文字は、わたしにはぼやけたものに見えた。