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科学技術社会論の課題としての(仮称)ニセ科学問題

(考えがまだよく整理されていないのだが、17・18日の科学技術社会論(STS)学会大会のときにだれかと話をする材料のために、書き出しておくことにする。[2012-11-18追記] 残念ながら学会のときにはだれともこの話題で話をする機会がとれなかった。他の仕事をかかえていたので懇親会に出なかったのがいけないのだが。)

[10月14日の記事]でも述べた「ニセ科学」と仮称される問題群 (用語はたとえば「疑似科学」のほうがよいかもしれない。ただしSFの想定のようなものは含まない)を、科学技術社会論の課題のひとつとして考えたい。科学技術社会論学会という学会があるのだから、たとえばその毎年の大会には常にひとつくらいはこの主題のセッションをやったほうがよいと思う。

ある「ニセ科学」的言説が科学的知見であるかのように社会に広まると、それを信頼した人自身に、あるいは社会に、(具体的な)有害なことが起きると予想されるので、その「ニセ科学」を抑制したい、と思う人がいる。しかし、「有害」と思わない人もいるかもしれない。また、有害ではあるが、権力や権威による抑制はすべきでないという人もいるかもしれない。社会として、こういうものにどう対処するかという課題があるのだ。そこでは、言説の中身に関する科学の立場からの検討と、社会の中で言説がどんな働きをするかに関する検討の両方が必要だと思う。

科学技術社会論にとって重要な問題は科学と権力の関係の問題であり、ニセ科学批判の話題は(権力によってニセ科学を抑制せよと主張しない限り)それと無関係なので、重要でない、と考える人もいるようだ。

確かに無関係と言えることもあるが、いつも無関係とは限らない。とくに教育政策には、科学的根拠のない意見を科学的学説であるかのように述べる人が有識者とみなされてとりあげられることがある。

たまには、科学者間の通念よりも、それに反する言説のほうが(科学の発達のうえで暫定的にだが)正しい、ということもある。「ニセ科学」とみなされた側の反論にはそれがよく使われる。しかし、いわば科学に革命を起こした新学説のようなものは、ありふれてはいない。科学者間の通念に反する主張のうち多くのものは、通念に代わる候補となる前に却下できる。これをどう識別するかも、(社会論ではないかもしれないが)科学論的課題だと思う。

ニセ科学」として問題になるのは、科学者間の通念から見て明らかにまちがった言説とは限らない。むしろ、適用範囲を限るか不確かさを明示すれば科学者も認めることができる言説を、適用範囲をひどく拡大したり、とても確実であるかのように言って宣伝する活動(悪意のない場合も含む)が問題になる場合が多いと思う。科学情報の中身の問題よりもむしろ伝えられかた・使われかたの問題がある。

学会としては、「ニセ科学」と目される活動をしている人々と対決するのではなく、独立した立場から議論するのを基本とするべきだろう。しかし、議論の結果として放置できないと判断した場合、公的機関がその活動を支援するのをやめることを勧告する(あるいは逆に「ニセ科学」という評判は不当なので支援してよいと勧告する)とか、報道機関などに記述をあらためるように勧告することなどはありうると思う。

学会での議論に、「ニセ科学」と目されている活動に明確に対決している人にどのような形で参加してもらうか、また「ニセ科学」と目されている活動をしている人自身にも参加してもらうか、について考えると、よくわからない。必ずしも対称的にすればよいというものでもないと思う。いずれにしても、学会の通常セッションならば、どちらの立場の人も、学会員になったうえで研究発表を申しこめば講演を認めることになるだろう。しかし、自発的に参加する人は、自分の信念を絶対に曲げない人であるかもしれず、そうすると議論は時間のむだと言えるものになりかねない。「ニセ科学」と目されている活動にかかわっているが、その自分を反省的に見ることもできる人に参加してもらえるとよいのだが、そういう人がもしいるとしても、来てもらうためには、特別なセッションを企画して招待講演者にする必要があるのかもしれない。