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「ニセ科学」と仮称される問題群

物理学者の菊池誠さんのブログKikulogが、しばらく休みだったのだが[7月1日の記事]、10月10日に再開された。

これを機会に、菊池さんが「ニセ科学」と呼んでいるものの問題を考えてみたい。

菊池さんは「ニセ科学」とは「見かけは科学のようでも、実は科学ではないもの」(*)だという。

多くの人は、(*)を「疑似科学」という。英語のpseudoscienceの訳なのかもしれない。わたしの個人的語感では、pseudoscienceは(*)と合っているが、「疑似科学」はむしろ科学の一種のような気がする。(*)の意味に対応する日本語としては「科学もどき」があると思う。しかし「疑似科学」という用語の意味を(*)と定義すると約束するのならば従うことは可能ではある。

菊池さんが「ニセ科学」と言うとき「疑似科学」と言わない理由は、「科学と神秘のあいだ」の本の第1部第5章のうち「SFと疑似科学」の節(80-84ページ)に説明されている。(この本の著者紹介ではSFは「趣味」とされており、実際大学から給料をもらっている仕事には含まれないはずだが、英語のSFを翻訳したものが商業出版されているほどにSFに力を入れている人の言い分だ。) SFの中では、現実の科学的知識に似ているが少し違うものがまことしやかに述べられることが多い。「空想科学」と呼ばれることもあるが、これは「疑似科学」の意味によくあてはまる。菊池さんが批判する対象は、このような意味での疑似科学ではないのだ。

ニセ科学」として批判される対象(仮にXとする)は、個別の発言ではなく、それなりに体系をもっていると言う印象を与える一連の言動をさしている。

Xが「科学でない」という判断はどのような判断なのか。
菊池さんは、科学と科学でないものの境界は明確にひけるものではないという。しかし不明確な境界帯はあるのだ。この点はわたしもそう思う。
その境界帯は実際にどのようなところにあるのかを述べるのは簡単でない。わたしなりの整理を試みる。

  • 現在の科学者の多くから見てXという事実認識が正しくないから、Xは「科学でない」と言っているように受け取れる議論がされることがある。批判された側からは、科学的知識の正しさが絶対的に確立されることはめったにないのだから、現在の科学者多数の認識をもとにXが正しくないと決めつけるのは横暴だ、という議論がされることがある。実際には、科学は確かに試行錯誤に満ちているのだが、試行錯誤の結果として「ほぼ確実にまちがい」と言えることはたくさんあるのだ。たとえば、永久機関とか、ホメオパシーとか、生物が放射性原子核の放射性をなくすことができるという主張とかは、それぞれが提唱された当時はともかく今の時点では「科学でない」と言ってよいだろう。
  • 主張の結論よりもむしろそれを導く議論の組み立てが、科学ならばとるべき方法論に従っていないならば、「科学でない」と批判することができる。その議論は科学に基づく主張のもつ強みを共有しないのだ。多くの研究では因果関係を統計的に推測する。その際のテストされるべき仮説のたてかたや、標本のとりかた、相関関係の解釈のしかたなどに、注意が必要だ。細かい流儀は専門分科ごとに違うけれども、ここで問題になるのは多くの分科に共通な科学の常識のようなものに合っているかどうかだ。
  • [2012-10-22補足、2012-10-27改訂] 「科学の方法論に従っていない」という判断のうちには科学の社会的制度に関するものがある。たとえば、査読済み論文の形で発表されていないものは、科学的知見とみなされないことがある。
  • 現在の科学によっては確かな答えを出せない問題がいろいろある。まったく答えられない問題もあるが、ありうる結果が幅をもっていてそのうちどれが実現するかわからない、という状況が多い。ところがXは確かな答えが出ると主張する。このような場合、Xは「科学でない」ということができる。

実際に「ニセ科学」として批判されるのは、「科学でない」だけでなく、それを信頼して行動する人々がいて、社会に害がある場合である。たとえば、ある効能をうたう言説とともに商品が売られているとして、その言説がニセ科学である場合、実際には効能がないので、商品を買った人はむだな支出をすることになるだろう。さらに、効能が病気の治療である場合、別の(現代科学に基づく)治療をする機会をのがすことによって、病気を悪化させる可能性がある。(「もうダマされないための『科学』講義」の片瀬氏の文章に例がある。) ニセ科学の言説によって国の政府や地方自治体を動かして政策を実施させた場合も、人々の税金のむだづかいになり、さらに、別の政策を実行する機会をのがすことになる。

ニセ科学」は、どちらかというと、その提唱者が「科学でない」ことを承知のうえでうそをついている場合にふさわしい表現だと思う。実際には、提唱者が自分の説を信じこんでいる場合もある。なお、この場合は(「疑似科学」と同列だが必ずしもそれと重ならない)「病的科学」ということができるものも含まれると思う[6月24日の記事][10月6日の記事]。しかし、現実には、提唱者の頭の中を知ることは困難だし、たとえ提唱者がうそをついていてもまわりに信奉者がいることが多い。提唱者がどう思っているかに関係なく、おもてに見える現象の共通性によって一括して考えるのが適当だろう。そのくくりにつけるラベルとして「ニセ科学」は必ずしも最適ではないと思うのだが、もっとよい名まえを思いつくまで暫定的に使うことにする。

文献

  • 菊池 誠, 2010: 科学と神秘のあいだ筑摩書房 (双書Zero), 212 pp. ISBN 978-4-480-86072-9.
  • 菊池 誠, 松永 和紀, 伊勢田 哲治, 平川 秀幸, [片瀬 久美子]著, 飯田 泰之 + SYNODOS 編, 2011: もうダマされないための「科学」講義 (光文社新書 541)。 光文社, 254 pp. ISBN 978-4-334-03644-7. [片瀬氏は書誌情報上は著者に含まれていないが実質著者のひとり。] [読書メモ]
  • Shelly SEETHALER, 2009: Lies, dammed lies, and science. How to sort through the noise around global warming, the latest health claims, and other scientific controversies. Upper Saddle River NJ USA: FT Press Science (Pearson Education). [日本語版]シェリー・シーサラー 著, 今西 康子 訳, 菊池 誠 解説 (2012):「悪意の情報」を見破る方法 ― ニセ科学、デタラメな統計結果、間違った学説に振り回されないためのリテラシー講座飛鳥新社, 269 pp. ISBN 978-4-86410-187-5. [わたしは日本語版を読んだ。] [読書メモ]