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病的科学 (2)

[6月24日の記事]の続き。

== Langmuirのいう病的科学 ==

Wikipedia日本語版「病的科学」(2012-10-06現在)より

病的科学(びょうてきかがく, pathological science)とは、観察者や実験者の主観やミスによって誤って見出される現象や効果を指す用語である。アーヴィング・ラングミュアによって「事実でない事柄についての科学」として定義された。

病的科学の特徴
ラングミュアは、病的科学の特徴を以下のように指摘している。

  1. 観測された最大の効果ですら、それは検出限界ぎりぎりのきわめて微量の原因物質によってのみしか起こり得ない。また、効果の大きさは原因物質の量にはほとんど関係しない。
  2. その効果は小さく、一貫して検出限界ぎりぎりである。統計的な意味があまりにも小さいので、実験や追試を何度も繰り返す必要がある。
  3. 実験には高精度を求められる。
  4. 経験則とかけ離れた(時には反するような)理論が提案される。
  5. 批判に対して、その場しのぎの仮説で反論する。
  6. 発表当初は批判者と同程度の支持者を得るが、その後支持者は次第に減っていき、最後にはほとんどいなくなる。支持者しか追試に成功しないため、結果として意味のある現象を証明できなくなるからである。

Irving Langmuirが1953年にした講演「Pathologial Science」の記録は次のところ(Princeton大学のKen Steiglitz氏のサイト)にある。
http://www.cs.princeton.edu/~ken/Langmuir/langmuir.htm
Wikipediaの要約が適切かどうか確認しようと思っているが、まだできていない。

== 例、ミトゲン線 ==

中谷宇吉郎 (1958) 科学の方法、第11章「科学における人間的要素」より

...流行にあおられた研究で、本人は意識していないが、人間的要素のかちすぎた研究が、案外たくさんあるのではないかと思われる。

 その一番大がかりのものは、約十年にわたって、世界中を騒がせた、ミトゲン線の研究である。 それは生物線とも呼ばれ、生物の細胞が分裂するときに、一種の放射線を出し、この放射線が他の細胞にあたると、その細胞の分裂を促進する性質をもっている。 はじめ玉葱の芽から、そういう放射線が出ることが「発見」され、その後いろいろな生命現象、たとえば酵母や動物の生きている血からもこの生物線が出るということになった。

 もしほんとうにそういうものがあったら、これは生物学をひっくり返すような大事件である。 それで世界中にわたって、大勢の医学者や生物学者が、この問題をつつき、専門雑誌に出た論文の数だけでも、三百篇くらいはあったであろう。 立派な数百頁の単行本も、二、三冊出ている。 ひょっとすると、医学博士も数人できているかもしれない。

 全く新しい分野のことであるから、研究はどんどん進み、つぎつぎと新しい「事実」が見つかった。 この線は、ガラスは通らないが、水晶なら通過する。 それで水晶分光器で、スペクトルに分解することができる。 生物の種類及び状態によって、その強度もまたスペクトルの配列もちがう。 たとえば健康な人間の血と、癌にかかった人の血とは、ちがった生物線を出す、というような騒ぎにまでなった。

 この生物線の研究は、世界中の相当な学者が、百人近くもかかって、約十年にわたって、着々と進められ、立派な単行本になるくらいの知識が得られたので、一時はその実在を誰も疑わなかった時代もある。 しかし問題は検出器にあって、ほとんどの測定では、生物の細胞を検出器として使っていた。 その細胞の分裂が促進されれば、生物線がそこへきたと判定するのである。 これでは少し心もとないので、物理学者の方で、その検出法の研究が始められた。 一番簡単なのは、写真乾板に感光するかどうかというのであるが、これはほとんど検出できなかった。 たまにぼんやり黒ずんでも、玉葱から出る何かの蒸気の化学作用かもしれないので、決め手にはならない。

 一番よいのは、ガイガー計数管であって、これならどんな弱い放射線でも検出できそうである。 それでガイガー管を使った研究が、約十篇発表されたが、面白いことには、その半分が肯定的結果であり、半分が否定的結果に終った。 それで生物学を書き換えるくらいの勢いであったこの大問題も、けっきょくは、正体不明のまま、いつの間にか、立ち消えになってしまった。 この頃は、ミトゲン線のことなど、きいたこともない人も多いであろう。 しかしこれは今から二十年くらい前の話であって、そう昔の話ではないのである。

 生物からでる放射線で、生物でしか検出できないものがあっても、別に現在の科学とは矛盾しない。 ジェームスの言葉を借りれば、科学は何が存在するかはいい得るが、何が存在しないかはいい得ない学問であるからである。 それで生物線のようなものが、存在しないとはいわないが、少くとも二十年前の生物線ブーム時代の研究には、人間的要素が、そうとう強く働いていたとはいっていいであろう。

最近、日本の学術雑誌の過去にさかのぼった電子化が進められているおかげで、「ミトゲン線」で検索をかけたら次のような論文が見つかった(「ミトゲン線」を「*」で置きかえて示す)。

== 応用可能性についての自信過剰 ==
さて、6月24日の記事で述べたように、Langmuir自身が1950年代に、自分の研究対象であった人工降雨という科学技術(科学を基礎とした技術)が有用であるという見通しに関して自信過剰になっていた。これも病的科学と言ってよいだろうと思う。応用可能性に関する楽観的な見通しは、病的科学が生じるうえで必須の要因ではないが、病的科学を生じさせやすい要因ではあるのだろうと思う。

病的科学というレッテル貼りをするつもりはないが、地震予知にしても、原子力発電にしても、再生可能エネルギー利用にしても、応用可能性について自信過剰になった人々がひっぱってしまった面があるだろうと思う。そういう構造が起きやすいことを知れば無理を重ねないうちに軌道修正(中止を含む)のしようがあるはずだ。事前警戒しすぎると新技術の発達をさまたげるおそれがあるので、むずかしいのだが。