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「安全・安心」論に関する覚え書き (2)

8月12日の記事「『安全・安心』論に関する覚え書き」の続き。

次の論文を読んだ。

  • 神里 達博, 2004: 序論: 「安全・安心」言説の登場とその背景。 科学技術社会論研究, 3, 72-84.

英語目次での表題では、著者は「安全」をsafetyとし、「安心」をsecurityとしたうえでanshinを添えている。

日本の行政の中で「安全・安心」という表現が使われるようになったのは、1992年11月25日の第13次国民生活審議会答申「ゆとり、安心、多様性のある国民生活を実現するための基本的方策について」が初めらしい。とくにその第2章第4節の題目は「安全で安心できる社会」となっている。

しかし、(これは著者の当時の研究の主題だったから強調されているかもしれないが) 2001年9月10日にBSE (いわゆる狂牛病)の日本での初めての発生が報じられてから、食品安全の分野でたびたび論じられるようになった。関連する問題はいろいろある。たとえば牛肉偽装事件(安全なはずの国産牛肉を輸入牛肉であると偽って補償金を得ようとした)はコンプライアンスの問題であり、無認可香料事件やホウレンソウ等の輸入食品の残留農薬問題は制度的問題だった。

神里氏はもっと大きな文脈として、U. Beck氏のいう「リスク社会において岐路に立つ科学的合理性」の問題があるとする。「近代の初期は富の分配を巡るダイナミズムが社会を駆動してきたのだが」今は「近代が生み出す『マイナスの富』=『リスク』の分配が社会の中心的テーマになってきている」。「科学的合理性と社会的合理性の競合状態」がある。そこで、「客観性に基づく『安全』という言葉のニュアンスからはこぼれ落ちてしまう科学的不確実性の下での政治的・行政的判断、予防原則の広がり、そしてコンプライアンス...を『安心』の語で代表させようという動きが起きているのではないか」というのだ。ただしBeckは科学と社会の対立を基本的な軸としているが、日本の「安全と安心」論は客観と主観の対立が重視されているという違いがある。

ここで使われていた「社会的合理性」ということばの意味をわたしはよく理解できていない。Beck氏の概念か、神里氏自身の思考によるものかもよくわからなかった。4月22日の記事「しろうとはどの専門家が信頼できるかをどう判断するか: ひとつの分類整理」の論点とは関係あるはずだが、あわせて考えるのは別の機会にしたい。

神里氏は、日本の「安全・安心」論には、Beck氏のいうようなリスク社会の問題と、1990年代以来の日本の行政独特の問題のとらえかたが重なっていると見ている。

また、日本の行政による使われかたは「社会システムを機能させる上での『信頼構築』を目指していると見なすべきケースが多い」としている。