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「EM (有用微生物群)」と科学教育の問題

[8月12日の記事「有用微生物は活用すべきだが、比嘉ブランドのEMは勧められない」]に続く話題。

スーパーサイエンスハイスクールの事例
呼吸発電(breathingpower)さんによるtogetter「科学技術立国日本の未来を蝕むEM菌」http://togetter.com/li/377682 にまとめられているように、科学技術教育活動の中で、比嘉照夫氏(2012年3月まで名桜大学教授)の「EM (有用微生物群)」を扱い、前の記事で述べたような問題点のある比嘉氏の主張を受け売りしているものがけっこうある、という問題がある。

そのうちで、スーパーサイエンスハイスクール(SSH)事業 http://ssh.jst.go.jp の例としてあげられていた甲府南高校の報告

を見てみた。

平成18年度の報告(14ページ)では、1年前期の「科学の世界」という科目のうち1回が「暮らしにいかす細菌 〜EM菌の不思議〜」というものになっている。この科目は全教科の教員が分担するもので、この回の担当は家庭科の先生となっている。なお「外部講師連携授業」となっているので高校の先生以外の人を呼んで講演してもらったのだろう。

内容紹介は21ページにあるが、とくに「生徒の感想」として

細菌や微生物のおかげで私たちの生活が成り立っていることを知り驚いた。EM菌の磁気共鳴波動という働きも正直信じられなかったが実際に体験できて感動した。

と書かれている。この「波動」は比嘉氏の著作にはあるが現代物理の概念にはつながらない。Twitter上で、「生徒の感想例とはいえ、さらにコメントがつくことなく報告書にのってウェブサイトに置かれているのでは、SSH事業担当者の見識が疑われる」というような議論があった。

平成22年度の報告では、詳しい内容はないが、カリキュラムが変更されて「フロンティアガイダンス」という全学年向けの科目の題目のうちに「暮らしにいかす細菌 〜EM菌の不思議〜」がある(11ページ)。この学校ではSSH事業の中にEMの教材が定着してしまったとは言えそうだ。これは「a)科学を題材としたもの本校教師担当分(例)」に含まれているので、外部講師ではなく家庭科の先生が自分で教えるようになったのかもしれない。

ただし、この学校のSSH事業のうちには、ほかに微生物や生態学関係の話題もある。山梨県らしく、ワイン醸造用微生物の話があったりする。報告書全体をざっとめくってみた印象にすぎないが、この学校のSSH活動のうちこの家庭科の先生の担当部分以外が比嘉流EMに染まっているとは思えない。この学校以外の事例の報告書はまだ読んでいないが、呼吸発電さんがtogetterまとめの文章で述べている「スーパーサイエンスハイスクール(SSH)にEM菌が深く食い込んでいる」という印象は、わたしは共有しない。

しかしSSHに限らなければ、EMが学校でとりあげられている事例はいくらでも見つかるので、EMが学校教育に「広く」くいこんでいるとは感じ、これはなんとかしなくてはいけないと思う。

微生物にふれる教材がほしい
9月24日にわたしはtogetterへのコメントとして次のように書いた。

比嘉流を駆逐できる、微生物の働きに関する教材がほしいですね。堆肥づくりや下水処理の原理のわかりやすい装置とそこで働いている微生物の同定など。自主研究型と忙しい先生でも扱える普及型と。

微生物の働き、とくに有機物を分解する働きは重要だ。人間社会が地球環境の有限性を意識しなければならなくなった今、ますます重要になっているとわたしは思う。

しかし、それは高校理科のカリキュラムではあまり重視されていないと思う。1973年から実施された学習指導要領のもとで、それ以前とは教科書ががらりと変わった際に、「生物1」の重点は、分子生物学の概念、とくにまず遺伝子としてのDNA、次に体内のエネルギー代謝をになうATPに関する理解にあり、生態学の話題は少人数しかとらない「生物2」にしか含まれていなかった。わたしはその後の変化を追いかけていないのだが、生態学の重みづけはカリキュラム改訂ごとに授業時間数の攻防に翻弄されているという感じがする。

「あつもの(比嘉EM)にこりてなます(微生物に関する教育)を吹く」になってほしくない。

学校の先生が微生物について教えたいと思っても、その教材があまり整備されていないのだと思う。そこで手ごろなところにEMがあるのだ。

上では引用を省略した甲府南高校の平成18年度の報告の内容を見てみると、EMによる「河川の水の浄化」はまずいと思うが、なまごみの有機物分解は実際うまくいっているのかもしれない。

呼吸発電さんのまとめの下のほうに、農文協(出版社)のページから「土着菌で、学校給食をゼロエミッションに! (食農教育 No.33 2004年4月増刊号より)という熊本県高森町立高森東中学校の先生の報告 http://www.ruralnet.or.jp/syokunou/200404/04_dotyaku.html が参照されている。前には比嘉流のEMを扱っていたのだが、それに疑問を持って独自の方法を編み出したのだそうだ。『土着有用微生物を活かす』(趙漢珪著、農文協)を参考としている。「川の浄化は、その川の土着菌で」はもっともだと思う。ただし、このやりかたが環境保全としてよいか、また衛生の立場からみて安全かどうかにはさらにチェックが必要だと思う。

わたしの微生物生態学に関する知識は基本的に栗原(1975)の本による。この本を読むと、複数の微生物からなる生態系が準定常状態で持続することはあるのだが、いつもそうなるわけではない。持続する条件を見つけるのは、試行錯誤だと思うが、あとからの分析で理屈がつけられることもあるようだ。

前回の記事でも引用したOSATOさんのブログ「杜の里から」http://blog.goo.ne.jp/osato512の記事「なぜEMが効かないのか?」は、沖縄のサン興産業という会社のウェブページ「なぜEMが効かないのか?」http://www.saion-em.co.jp/file_26/file_26.html を引用している。それによると、EMの始まりは、サン興産業が作っていた微生物資材の品質が安定しなかったので比嘉教授に相談したことだそうだ。両者の協力によって微生物群集を持続させるノウハウができたらしい。(ただしこれは経験的なものだったようだ。比嘉氏があとでつけた理屈は無理がある。)

学校の教材としては、教材を扱うことに特別に時間をかけられる先生ならば使えるものの範囲は広いが、ほかのことで忙しい先生のためにはパッケージ化することが必要だろう。とくに微生物を扱う場合は衛生上の問題が起きにくいものである必要がある。EMという物は、なまごみの堆肥化をねらうのであれば、もしかすると適切なのかもしれない。しかしそれに比嘉氏の思想が付随するのはいただけない。教材づくりに時間をかけられる先生と、微生物の生物学と、堆肥づくりという応用との両方の専門家の協力を得て、よい教材を作ることができるとよいと思う。(と言いながら申しわけないが、わたし自身は少なくとも今年度はそれにかかわる時間をとれそうもない。)

身近な有機物の分解としては下水処理もある。日本の下水処理場で普通に使われている活性汚泥法は、学校の教材で扱うことはむずかしそうだ。田中(2012)の本で「適正技術」の例として紹介されている回転円盤式がよいかもしれないと思った。これも学校の先生と下水処理技術者、さらに微生物研究者が協力するとよいと思う。

科学教育は科学を信じさせるものではいけない
9月23日にtwitter上で次のような議論もあった。直接にEMの話題を参照していないが、タイミングからみて、それがきっかけだったと推測する。

@ynabe39: ニセ科学を疑うためには科学も疑わないとならない。科学を疑うことを教えなければニセ科学にも簡単に騙される。
@Tamio_elessar: 本当の科学はミスを認め、そこから新たな発展を目指しますものね。ニセ科学は決してミスを認めない。
@ynabe39: 「科学者がやっている科学」は疑わずに賞賛させて「ニセ科学」だけは疑わせようというのは無理だと思う。
@TanTanKyuKyu: 疑うことはプロの仕事だからなあ
@ynabe39: まさにそういうことで,ニセ科学がはびこるのは多くの人が「科学の結果を信じている」からだと思う。

これを受けて、わたしはtogetterに次のようにコメントした。

ニセ科学を批判しないのではなく、科学的に正しい手続きで得られた知見も正しくないことがあることを教えるべきなのだろう。

科学教育は、科学の結果を信じさせるものになりがちだ。ところが、こういう教育を受けた人は、比嘉氏のEM万能論のような一見科学的な主張を信じてしまいがちになる。

こういう話題に出会うと、自分の(大学で担当している気象学の)授業が、現代の科学が得た知見を伝えることばかりになっており、疑問をもたせるものにはあまりなっていないことを反省する。言いわけになるが、科学的知見を伝えることはやはり必要なのだ。そして、科学者がそれをどう扱っているかも伝える必要があるのだと思う。科学者は科学的知識を「信じて」いるわけではないが、疑いっぱなしでもない。その手かげんを伝えることが必要なのだろうと思う。

【[2012-10-02補足] ynabe39 さんの10月2日のtweetより。上記のものと一見対立するが、同じことを反対側から述べているのだと思う。わたしの考えもこれに近い。

専門家にできることは個別の問題についてそれぞれ「それは間違っているから信じないように」と繰り返し言い続けることだけで,「人々が変なものに騙されないようになる特効薬」などないのだと思う。
もともと「信じるのがいけない」のではなく「信じることで害のあることを信じるのがいけない」のだと思う。すべきことは「明らかに害のあることについては害を知らせて信じないように促す」ことだけであって,信じること自体を敵視するのはうまくないと思う。
何も信じずすべてを疑って生きることなどできないではないか。

科学教育の目標設定についての概念整理をしたいと思いながら、なかなかできないでいるのだが....

科学技術庁系の科学技術教育プログラムのうちには、科学への「信頼醸成」をねらったものもあるのかもしれない。しかしスーパーサイエンススクールを含むいくつかは、科学研究の人材育成という観点から始まり、科学研究者という職業に興味をもたせる動機があると思う。必ずしも体系的な教材ではない。適性のある生徒は興味をもてばあとは自発的に勉強するという性善説に立っているのだろう。ただし、学習指導要領のわくにとらわれるなというメッセージは含んでいると思う。その意味で教育目標を画一的に設定しがちな文部省系とは対立するかもしれない。ただし科学技術庁系の人材育成の議論は、日本の産業に何千億円もの利益をもたらす発明をする人と、ノーベル賞などの名誉をもたらす人は、どうすれば出てくるかに偏りがちだ。これでは「一将功なりて万骨枯る」ではないだろうか。「一将」に対して「百兵卒」くらいは研究労働者として食えるかもしれないが、その観点では「万骨」になってしまう、結局科学を職業としない人への効果のほうが、高校などでの科学教育にとっては大事だろうと思う。

ともかく、科学研究者という職業に興味をもたせる教育活動で、生徒が現役の科学研究者と話し合う時間がとれるならば、成功例や夢ばかりでなく、失敗例や試行錯誤の経験も話すようにすれば、科学的知識を「信じる」のではなく現役の科学者がとらえているようにとらえる人をふやすことができそうだと思う。

(現役の科学者たちが全体として科学の社会的影響に関して楽観的すぎるのではないか、という問題は残る。ただし、それだからといって科学批判論者の観点だけを教えればよいということにもならないと思う。)

文献