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病的科学

「病的科学」は「疑似科学」と関係があるが別の概念だ。その意味は必ずしも統一されていないと思うが、わたしは次のように考える。

(科学の対象になりうると思われるが)科学による答えが出ていない問題について、いろいろな仮説をたててその検証を試みる(Popper流に言えば「反証を試みる」)のは健全な科学的活動だと言えるだろう。【「健全な科学」という表現はアメリカの政治で特殊な意味で使われているが、ここではそれをさす意図はない。】

ところが、じゅうぶんな検証が行なわれないうちに、その仮説のひとつが正しいと信じこんだ人が積極的に活動すると、社会に迷惑をかけることになる。その仮説に基づいた技術が有用だと主張して、商品を買わせたり、国に政策的支出をさせたりしたが、実はその効果はなかったとすれば、ひとにむだづかいをさせたことになる。場合によっては、ひとを危険にさらすことになるかもしれない。

多くの科学者が確立した科学的理論だと思っていたことが結果としてまちがっていて、人に害を及ぼしていた、ということもときには起こりうる。

しかしここでは、多くの科学者が、その問題にはまだ答えが出ていないと思っているか、あるいはそういう問題があることを考えもしないときに、少数の人だけがその問題について特定の説を熱心に提唱している状況を考える。

もしだれかが正しくない説を正しいとうそをついておかねを出させるならばこれは詐欺だ。仮説にじゅうぶんな証拠の裏づけがないことを承知で確かな理論であるかのように言うことも詐欺的だと言える。「にせ科学」という表現を使った批判はこのような場合にふさわしいだろう。【[2012-06-26補足] 「にせ科学」として批判対象になる主張のうちには、仮説として述べられる限りでは科学的なものも多い。それを確立した理論であるかのように言う態度が科学の規範からはずれるのだ。】

他方、説をとなえる人自身が説を信じこんでいる場合は詐欺とは言えないが、迷惑のかかりかたは似たようなものだ。しかし迷惑をかけている人を説得するしかたは違ってきそうだ。ここでいう「病的科学」はこちらの場合をさした表現だ。

病的科学の例として、化学者Langmuir (ラングミュア)が1950年代に批判した対象となった「N線」や「ミトゲン線」が知られている。(19世紀末の放射線の発見に続いて、いろいろと新しい種類の放射線が見つかったという主張がされたのだ。)

ところが、同じ1950年代にLangmuirは人工降雨の研究を推進した。雲の凝結核となりうるヨウ化銀ドライアイスをまくと雲粒のできかたが変わることを発見し、その理屈を考えることができたのは確かに科学的研究だった。しかし人工降雨が確実にできて水資源確保や国防に役立つだろうという主張は自信過剰だった。Langmuir自身が病的科学に陥っていたということもできる。Fleming (2010, 日本語版2012)の本を参照。

比較的新しい時代の病的科学としては、常温核融合がある。ただし病的なのは、常温核融合が「できた」あるいは「確実にできる」と主張した人たちであって、「報告を追試してみよう」と思った人たちや、「あまり起こりそうもないが可能性を追求してみよう」と思った人たちは科学的に健全であると言えることが多いと思う。

さて、近ごろ、「再生可能エネルギーで今と同じかそれ以上の規模の産業経済をまかなえる」という仮説に自信をもちすぎている人たちがいると思う。これもLangmuirと同じ意味で病的科学になっているのではないだろうか。わたしは、再生可能エネルギーの利用がもっと拡大できるにちがいないとは思う。そしてそれを促進せよという意見には賛成なのだ。しかし、再生可能エネルギーによって、これまで化石燃料が利用できることを前提として成長してきた産業経済を支えることは、できるかどうかわからないし、できるとしてもなん十年もかかると思う。化石燃料原子力に頼らないためには、産業経済のほうを再生可能エネルギーに適応して変える必要もあると思う。

文献

  • James Rodger FLEMING, 2010: Fixing the Sky: The checkered history of weather and climate control. New York: Columbia Univ. Press, 325 pp. ISBN 978-0-231-14412-4. [読書メモ]
  • [日本語版] ジェイムズ・ロジャー・フレミング 著, 鬼澤 忍 訳 (2012): 気象を操作したいと願った人間の歴史紀伊國屋書店, 521 pp. ISBN 978-4-314-01092-4. [読書メモ]