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増税は避けられない。消費税増税よりも天然資源環境税が望ましい。

国会での税と社会保障の制度改革に関する審議が、消費税増税の是非という論点に限定されてしまったのがとても残念だ。

もし選択肢が「消費税増税」と「何も変えない」だけならば、わたしはしかたなく「消費税増税」に賛成する。しかしこれだけしか選択肢がないのはとても愚かな政治だと思う。

わたしには国民のひとりである以外の権限もないしこの問題に関する専門知識もないが、どうしても意見を述べてみたくなった。(すでにこのブログその他で書いていることのくりかえしが多いが整理しなおしを試みてみる。)

国(政府)の借金がどんどん拡大してはいけない。短期的に拡大することは許容できるが、その先で収支をつりあわせる計画を組んでおくべきだ。(あとで国会で決めるという口約束だけでは、いざというとき国会の意思決定能力が落ちていると困る。)

(むだづかいを減らすことはもちろんすべきだが)支出減らしには限りがある。

高齢化で社会保障費がふえることは、ある程度は避けられない。(出産しにくい世の中はまずいが)出産奨励は適切な対策ではない。世界の資源制約を考えれば人口は抑制しなければならない。(日本は定住移民を受け入れることをせまられるはず。多民族共存社会への移行が必要だ。)

次に述べる経済の事情から、生活保護受給者がふえることも覚悟しなければならない。失業対策とその他の公共目的(たとえば環境保全)を兼ねた公共部門による雇用も必要になるだろう。また、環境保全(原子力事故のあとしまつを含む)には、国の責任で取り組まなければならないことがいろいろある。

社会保険料を含めた広い意味での税収をふやすことがおそらく必要だ。ほかの選択肢は、国がやって当然と思われていた公共サービスのいくつかを廃止することだが、それだけを徹底して進めるのは現実的でないだろう。【たとえば、義務教育の教科書の無償制度をやめたとして、もし生徒の保護者に教科書を買えというならば、広い意味の増税となる。教科書を使わないでやれというのならば、学校教育という公共サービスの部分的廃止と言えると思う。】

税率を上げず(むしろ下げて)経済活動を活発にしたほうが税収がふえるという考えもある。そのような因果連鎖は起こりうるが、必ず起こるものではない。とくに、20世紀の経済成長はエネルギー資源消費量の増加を伴っていた(エネルギー節約によって比例係数は改善されてきたが)。【Ayres and Warr 2009参照。これで示されたのは相関であって因果関係ではないと言われるかもしれない。しかし「技術」という定量化困難な要因のせいにするよりはもっともらしいと思う。】

今や資源の有限性は明らかなので、成長は意図すればできるものではない。経済のうち物質やエネルギーを多く使わない部分の拡大は、金融バブルや流行現象など、数年で崩壊する可能性のあるものが多く、政策としてはむしろ拡大しすぎないように注意しなければならない。

税収を確実にふやしたかったら、(経済活動を抑制するという副作用を覚悟して)税率を上げるしかない。もし努力にも運にもめぐまれて弊害なく経済が豊かになれば、税率を下げることはできる。それを条件つきで予定に組みこんでおいてもよい。

経済活動低下が失業を招かないように、また失業が餓死に代表される生活苦を招かないように、職の確保と生活保護の二重の安全措置を意識的に強化することが重要だ。(そのためには税収が必要なのだ。)

どういう税金をふやすかには政策的選択の可能性がある。

日本は、政府は赤字だが、国民個人や国民が株主になった会社まで含めた国民経済としては震災前まで黒字だった。震災後の支出増で単年度では赤字になったかもしれないが、累積黒字はあるはずだ。ただしその多くは、日本の企業が外国に投資し、外国での生産活動に使われている資産である。日本の政府の立場からみると、ここからの税収をふやすべきだと考えられるが、外国の社会に悪影響を与えてしまうかもしれないので、よく考えないといけない。

よく言われることとして、法人税率を上げると企業が外国に逃げて税収につながらないおそれがある、ということがある。(ただし、企業が日本に拠点をおくかどうかの判断に税率はあまり重要でないという説もある。) また、日本に限らず世界のどこでも経済活動低下の可能性があり、その場合、企業の利益への課税では、税収が大きく落ちこんでしまう。

そこで、外国と直接かかわらず、また経済活動が低下してもそれなりに税収が見こめるものとして、多くの政治家が、消費税を上げるという選択をすることになった。(ここでいう「消費税」はあらゆる商品の価格に対して[必ずしも均一ではないが]同様な税率をかけるものをさす。)

しかし、国民の多くは、自分の税負担がふえることはいやだ。(税というものの性格から当然だが、税負担に合わせて国から各人へのサービスもふえるかどうかはとても不確かなので。) すべての国民(正確には外国人も含めてすべての居住者)の税負担がふえる消費税の増税は、他の増税に比べても国民世論からの評判が悪い。増税に反対した政治家の評判がよくなってしまう。しかし消費税増税に反対しながら対案を出さない政治家は無責任だ。また、対案が「経済活動を活発にすること」では安全を見こんだ策にならない。なんらかの増税(税率上げ)が必要なのだ(条件つき税率下げを組みこんでもよいが)。

ここで、課税は、税の対象となる活動を抑制する効果があることに注意する必要があると思う。ある活動を抑制するための手段として、課税を使うことができる。他方、抑制がうまくいくと、たとえ税率が高くても、もとになる活動の量が少ないので、税収は減ってしまう。つまり、活動を抑制することと、税収を確保することとは、過渡的にしか両立しない。したがって、税制はたびたび変えていかなければならないのかもしれない。国民が活動の長期的計画をたてるためには、税制の変化は少ないことが望ましいのだが。

消費税は消費活動を抑制する効果がある。所得税は所得をもたらす経済活動を抑制する効果がいくらかあるだろう。経済活動を活発にするのが望ましいという立場からは、消費税の増税も、所得税増税も望ましくない。経済活動のじゃまになっている活動に対して課税するべきだということになる。

しかし、自然環境や天然資源という制約もある。化石燃料の消費がふえることは望ましくない。核燃料の消費がふえることも望ましくない。化石燃料と核燃料をあわせて「非再生エネルギー資源」と呼んでおく。お金の尺度で見た消費の増加が非再生エネルギー資源の消費の増加を伴うとは限らないが伴うことが多いので、消費税の増税は、非再生エネルギー資源の消費を抑制するという意味ではもっともだ。しかしもっと直接的に、非再生エネルギー資源を使うことに課税するほうがこの目的には適している。一般消費税の制度の背景に、商品価格が生産・流通の各段階での付加価値の積み上げからなるという考えがあるが、商品は生産・流通の各段階で消費されたエネルギー資源量を背負っていると考えることもできる。(二酸化炭素排出量を集計した「カーボン・フットプリント」はこれに近い考えだ。原子力発電については当面、化石燃料による発電と同等な環境負荷があると仮定して集計し、環境負荷に関する改善された知見が得られたら税率を変えるのがよいと思う。) もちろん、自然環境や天然資源の損失は、非再生エネルギー資源の消費に関するものだけではない。たとえば、非再生地下水の消費や、生物多様性の損失も考慮すべきだろう。ただしそれをどのような指標で集計しどのような税率をかけるかの案をつくり社会の合意を得るのには時間がかかりそうだ。将来そのような拡張がありうることを念頭に「天然資源環境税」として制度化し、当面の対象は非再生エネルギー資源とするのが現実的だろうと思う。

わたしは「天然資源環境税」を目的税とすることを意図してはいないが、おもに社会保障および環境保全に関する国の負担にあてることを想定している。

ドイツで1999年に環境税(炭素税)が導入されたとき、その税収の大部分は、社会保険料の雇用主負担を減らすことにあてられたそうだ。(わたしは倉阪編 2010の本の竹内恒夫氏による章で知った)。二酸化炭素排出は減らしたいものなので、社会保障がそれに依存すると困るのだが、過渡的政策としては、これは賢い判断だと思う。20世紀には非再生エネルギー資源を使った機械化により労働生産性を上げてきた。今や、エネルギー資源に限りがあるので、労働生産性の改善にも限りがある。また、失業を減らすために、雇用をふやすことを奨励するべきだ。ところが、そこに社会保険の雇用主負担があると、少人数の労働者を長時間働かせることの奨励になってしまう。労働と賃金をもっと公平に分配するために、社会保険の雇用主負担はなるべく減らすべきだろう。これは、日本で前から課題となっている社会保障制度の一本化の目標とも一致するだろう。

文献

  • Robert U. AYRES and Benjamin WARR, 2009年: The Economic Growth Engine: How Energy and Work Drive Material Prosperity. Cheltenham Glos. UK: Edward Elgar, 411 pp. [読書ノート]
  • 倉阪 秀史 編著, 2010年: 環境 ― 持続可能な経済システム (持続可能な福祉社会へ 公共性の視座から 2)。勁草書房, 333 pp. ISBN 978-4-326-34881-7. [読書メモ]