macroscope

( はてなダイアリーから移動しました)

科学者までがチベット・ヒマラヤの氷河は十億人の水資源と思っているのか?

[8月9日の記事「チベット・ヒマラヤの氷河は十億人の水資源なのか (ふたたび)」]の補足。

[2010年1月28日の記事「査読を経た論文だから信頼できるとは限らない」]で、とくに論文の序論や、結論を述べたあとの補足的考察の部分は、著者の勝手な発想を査読者が許してしまうこともあるので、科学的議論の根拠として使わないほうがよいと述べた。そのときに念頭においていたのは、実は、チベット・ヒマラヤの氷河がなん億人もの水資源だという主張を、査読済みの論文(複数)の序論や考察の部分で見たことだった。わたしは、その論文の本論は、それぞれが出版された雑誌の査読済み論文にふさわしい質のものだと推測しており、わたし自身の議論の根拠としても使うかもしれないのだが。

(1) Kehrwaldほか (2010)。高地の氷河のコアサンプル分析に関しては実績のあるアメリカのオハイオ州立大学のLonnie ThompsonとEllen Mosley-Thompsonのチームの仕事(第1著者は博士課程の大学院生だった)なので、本論は信頼できそうだ。

しかし、序論(1. Introduction)の中では、まず別の出典World Resources Institute (2003)を根拠として、インダス・ガンジス・ブラマプトラの3つの川の流量にとって支流に季節的に出てくる氷河のとけ水が約45%をしめると述べ(本流の流量か支流の流量か、年流量か季節ごとの流量かがあいまいな表現だが、わたしはもとの文献にあたって確認していない)、それから「Cruzほか(2007)」つまりIPCC第4次報告書の第2部会の巻のアジアの章(第10章、以下IPCC AR4 WG2 ch10と略す)を根拠として、この3つの川の水に依存する人口が約5億人だと言っている。あとの部分だけで見ればまちがいではないのだが、前の部分と続けて述べるのは不適切な表現と言えると思う。

そして、考察(6. Implications for Water Resources)の節は、IPCC AR4 WG2 ch10に大きく頼っている。

ここでは、ヒマラヤの氷河の将来見通しに関するまちがい[2010年1月25日の記事「ヒマラヤの氷河に関するIPCC第4次報告書のまちがい」参照]まで引き継いでしまった。ただし、2035年までに「消滅する」というほうではなく、面積が5分の1になるという見通しのほうだ。ただし「2035」が「2030」と変わっている(とくに理由はなくもうひとつ単純なまちがいが加わったのだろう)。またこれはチベット高原の氷河の面積だとされている(狭い意味のヒマラヤの氷河にしては数値が大きすぎると判断してこういう解釈に至ったのかもしれない。本来は極地を除く世界の氷河の面積だったのだが)。

それに加えて、本文最後の文で、本論で調べた事例がもし広域を代表するとすれば、この地域[チベットあるいはヒマラヤ]の氷河のとけ水の変化は、約5億人の人々にとって重大なことになるだろう、と述べている。ここに直接の文献参照はないが、序論で述べたことを引き継いでいるにちがいない。

この専門分野の論文を読み慣れていない人は、本文最後の節の最後の文が論文全体の結論だと思い、信頼できると思って自分の議論の根拠として使うかもしれないし、逆にこの主張が信頼できないから著者たちの研究が信頼できないと思うかもしれない。しかし、わたしが読めば、6節はつけたしの考察であり、著者たちの専門性が生きているのは2節から5節までの本論であることは明らかだ。

(2) Xuほか (2009)。第1著者を含む多くの著者の所属は中国科学院チベット研究所。NASA GISSのHansenも共著者で連絡先になっている。これも本論の氷河のコアサンプル分析で何がわかったかについてはたぶん信頼できそうだ。ただし本文最後の段落の将来見通しの話はあまりていねいに考えられたものでないように思われる。

そして(節見出しはないが)序論の最初の段落は次のようなものだが、これはまずい。

Glaciers on the Tibetan Plateau, sometimes called Earth’s "third pole," hold the largest ice mass outside the Polar Regions. These glaciers act as a water storage tower for South and East Asia, releasing melt water to the Indus, Ganges, Brahmaputra, and other river systems, providing fresh water to more than 1 billion people (1, 2). Glacial melt provides up to two-thirds of the summer flow in the Ganges and half or more of the flow in other major rivers (3). One-quarter of the population of China is in western regions where glacial melt provides the main dry season water source (4).

文献(1)はBarnettほか(2005,*)だ。(2)はSingh and Bengtsson (2004,*)、(4)はGao and Shi (1992,*)で、いずれもBarnettほか(2005,*)の参考文献だ。また(3)はQiu (2008)で、Natureの(論文ではなく)チベット高原についての研究に関する報道記事だ。

「(1, 2)」のついた文は、すなおに読めば「氷河のとけ水が十億人以上の人々に水を供給している」と言っている。「providing」の主語が文全体の主語である「(チベット高原の)氷河」ではなく「インダス・ガンジス・ブラマプトラその他の河川流系」だとすれば内容はまちがいではないが、不適切な表現だと思う。

「(3)」のついた文に対応する記述はQiu (2008)には見あたらない。おそらく「(3)」という参照はまちがいで、「(2)」にあげられたSingh and Bengtsson (2004,*)を示すつもりだったのだろう。しかし[8月9日の記事]で述べたように、それを読んでもガンジスに関する記述はなく、インダスの支流のひとつの年流量の約半分が雪どけ水(氷河のとけ水も含むがその分量は不明)であることが示されているだけだ。おそらくこの文はBarnettほか(2005,*)から引きうつされたのだと思うが、そのもとの参照が正しくなく、裏づけがわからないのだ。おそらく内容は上流部について・初夏の乾季については正しいのだろうとわたしは推測するが、そうだとしても、単にガンジスと言えば中流・下流部を思う人が多いと思うし、summerを雨季と思う人もいると思うので、不適切な表現だと思う。

「(4)」のついた文もBarnettほか(2005,*)からの引きうつしにちがいない。Shi and Gao (1992)と思われる文献を見ても対応する記述は見あたらない。この文も、示された中国西部の人口の全部ではなく一部が氷河のとけ水に依存すると解釈すれば、まちがいではないのだが、不適切な表現だと思う。

「(3)」の参照まちがい以外は、著者がNatureに出た論文の権威を信用しすぎたということのように思われる。中国やアメリカにいる雪氷学者や気象学者が自分でインドの川の水の量に関する感覚的判断ができず、査読でもチェックできなかったのは、残念だがやむをえなかったかもしれない。

なお、Natureの記事を検索していたら同じ記者による続きの話(Qiu, 2010)が見つかった。

The third pole is also known as Asia's water tower, because its glaciers feed the continent's largest rivers, which sustain 1.5 billion people across ten countries.

その前にthe third poleとはa region of more than five million square kilometres, centred on the Tibetan plateau and the Himalayasだと説明されているが、そこの氷河が15億人を支える水資源だとも読める。氷河の水を源流にもつ川の合計という意味にとればまちがいではないのだが、不適切な表現と言えると思う。これは記事のまくらにすぎず、本論は科学者の仕事の紹介で、それはよくできていると思うのだが。

[2011-10-14注:わたしの文章で「議論」ということばを2とおりの意味で使っていてわかりにくかったので、英語でいえばdiscussionとなるところは「考察」に変え、argumentとなるところは「議論」のままとした。]

文献
(「*」印をつけた参照はここではなく[8月9日の記事]の参考文献リストを見ていただきたい。)

  • Natalie M. Kehrwald, Lonnie G. Thompson, YAO Tandong, Ellen Mosley-Thompson, Ulrich Schotterer, Vasily Alfimov, Jürg Beer, Jost Eikenberg and Mary E. Davis, 2008:, Mass loss on Himalayan glacier endangers water resources. Geophysical Research Letters, 35, L22503, doi:10.1029/2008GL035556. [オハイオ州立大学Thompson研究室の著作リスト]
  • Jane Qiu, 2008: [News Feature] China: The third pole. Nature 454, 393-396. doi:10.1038/454393a. [記事本文]
  • Jane Qiu, 2010: [News] Measuring the meltdown. Nature 468, 141-142. doi:10.1038/468141a. [記事本文]
  • World Resources Institute, 2003: Watersheds of the World [CD-ROM]. New York: World Resources Institute. [わたしは直接見ていない。]
  • Baiqing Xu, Junji Cao, James Hansen, Tandong Yao, Daniel J. Joswia, Ninglian Wang, Guanglian Wu, Mo Wang, Huabiao Zhao, Wei Yang, Xianqin Liu, and Jianqiao He, 2009: Black soot and the survival of Tibetan glaciers. Proc. Natl. Acad. Sci., 106, 22114-22118, doi:10.1073/pnas.0910444106. [NASA GISSの2009年の著作リスト]