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当用漢字育ちの日本語表記論

[前の記事]で、「からぶり」を「空振り」と書かなかった。漢字変換で「空振り」が出てきたのだが、それでは「空気の振動」のような気がして(「空間の振動」だと思わなかったのはたまたまだが)、ほかに適当な候補がなかったので、ひらがなにしたのだった。

少し前に、印刷原稿の校正をした際には、「ふえる」を「増える」と修正した編集者に抵抗してしまった。わたしにとって「増」の訓読みは「ます」とその派生語に限るのだが、わたしがそう主張しても説得力がないと思ったので、本来日本語ではひとつの「ふえる」ということばを古典漢語によって「増える」「殖える」と書き分けることはしたくないのだという主張をおもてに立てた。

日本語の文字づかいについてのわたしのこのような感覚は、1960年代の子どもとして、1950年前後の文字改革(いわゆる漢字制限)に忠実に従っていた教科書や新聞の文字づかいをすなおに受け入れた結果だ。具体的には「当用漢字表」「当用漢字音訓表」(以下の議論にはあまり関係ないがついでに言えば「当用漢字字体表」「現代かなづかい」「送りがなのつけ方」「ローマ字のつづり方」)だ。ただし、規則だから従ったわけではない。そういう態度にはむしろ反抗的だった。

わたしが漢字制限に従ったひとつの理由は、制限に従った本が、制限以前の本に比べて読みやすいと思ったからだった。

家にはわたしの親の世代の人たちが子どものころに読んだ本もあった。ふりがながあれば読めるのだが、印刷が必ずしも鮮明でないとき、黒い部分の多い紙面の中で小さいふりがなを追うのは楽ではなかった。

もうひとつの理由は、なぜ制限するのかの理屈を読んでもっともだと思ったからだった。理屈をわたしは次のように理解した。

  1. ことばは話しことばが基本である。
  2. 文字列が決まれば読みかたが決まるべきである。
  3. 同じ日本語の単語を古代漢語の意味によって書き分けるべきでない。

(このように整理して理解できたのは1970年代にはいってからであり、すでに日本国の行政が漢字制限の緩和に向かっていたころだったが。)

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人のことばには話しことばと書きことばがあるが、話しことばのほうが歴史が長いにちがいない。書きことばは意味から文字に直接つながるわけではなく、まず意味を伝える話しことばがあって、それを文字によって記録するのが基本だ。日本語の書きことばで音は同じなのに文字でだけ区別していることがあるのは言語上の事実ではあるのだが、規範的な立場で、望ましくないことだと考えられる。

【(その後わたしが扱うことが多くなった)数式やコンピュータ言語は、話しことばを基礎としない書きことばと言えそうだ。しかし人は数式やコンピュータ言語だけを使って生活することはできない。いわゆる自然言語に限れば、話しことばが基本というのはゆらいでいないのではないだろうか。

耳が聞こえない人が使う手話や筆談には、話しことばの裏づけのない部分もあるのかもしれない。しかし、幸か不幸か、それが耳が聞こえる人たちの言語生活に影響することは少ないと思う。耳が聞こえない人でも人の口の動きを読み取る場合は話しことばにかかわることは明らかだ。(ここで「読唇術」ということばを使いかけたのだが、これは聞いて「読心術」と区別できないことに気づいてとりやめた。)

もっとも、最近のおとなのうちには、ひとり暮らしの生活や、ブースに分割されてパソコンを使っているオフィスで、話しことばをほとんど使わず、書きことばだけをやりとりする人も多いかもしれない。(放送を聞くことはあると思うが、それも画面の字を見ることがおもになっているかもしれない。) これが続くと、耳が聞こえる人のうちにも、話しことばの裏づけのない書きことばが成り立っていくのだろうか?】

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表音文字では発音と文字は1対1に対応するのが望ましい。スペイン語などはそれに近い。フランス語では同じ音がなんとおりにもつづられるが、単語程度の文字列の発音はだいたいひととおりに決まるので、多対1対応と言える。英語は多対多で、単語程度のまとまりごとに発音を暗記するしかない。おそらく世界の表音文字を使う言語のうちでいちばん複雑な対応だろう。

漢字のような、いわゆる表意文字がはいってくると、同じ音がなんとおりかの文字に対応するのは当然になってくるが、中国語では漢字の音はひととおりであることが多く、複数ある場合でもたいてい単語程度のまとまりで読みが決まる。しかし日本語では、同じ漢字の読みかたがなん通りもあり、しかも単語の区切りが明示されていないので、発音と文字の対応は英語の場合よりも複雑だ。

話しことばを基本とする立場では、文字列を見ても読みかたが決まらない表記法は困ったものだ。訓読みをやめてしまえば中国語と同じレベルまで整理されるのだが、第二次大戦後の日本の文字改革はそこまでは踏み切れず、多くの漢字に対して、音読みに加えて、訓読みを一通り、あるいは名詞・動詞などの品詞ごとに一通りまでは認めた。これでも、文脈から音訓のいずれか推測でき、また品詞が推測できるならば、読みかたが決まる。しかし、とてもよく出てくる字については、習慣に妥協して、複数の訓読みを認めた。子どものころ「当用漢字小辞典」というような題名の本で見た記憶では、音訓表に登録された読みかたのいちばん多い字は「生」だったと思う。

わたしはこの方針を自分のものにしてしまった。そこで「増」は「ます」という動詞にあてられており、とてもよく出てくる字ではなかったので、「ふえる」という動詞に使うことはできないのだ。

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同じ単語を書きわけない例としては、「かわ」を「川」「河」と書きわけないことがあげられる。「河」という字は「カ」(「ガ」)という音読みでは使う。また(音訓表の制限対象でない)固有名詞で「かわ」と読まれることも知っている。しかし(音訓表のもとで育ったわたしの感覚としては)普通名詞の「かわ」を表現したいときに選択できる文字ではない。「おおきいかわ」は「大きい川」と書くべきなのだ。(「かわ」は同じでも「皮」・「革」は「川」とは別の単語だ。ただし「皮」と「革」とは日本語ではひとつの単語だと思う。)

ただし音訓表にはこの原則への例外がいくつもあった。「熱い」「暑い」は同じ単語の書きわけにちがいない(「厚い」は別の単語だが)。わたしの記憶の限りでは、音訓表で同じ訓読みにいちばん多くの漢字が対応しているのは「はかる」(計る・測る・量る・図る)だった。数量の値を得るという意味で使われる「計る・測る・量る」の意味は重なりあっている。「意図する」の意味の「図る」はこれとは別の単語というべきかもしれないが「計画する」の意味の「計る」とは重なりがある。

日本語の同じ単語を古典漢語の細かい意味の違いを反映して書き分けることは、現代の日本人にとって必要な言語能力に含める必要はないと思う。どの漢字を使ってもよいとするよりは、ひらがなにしたほうがよさそうだ。(一つの漢字にしぼるという案もあるが、古典でのその漢字の意味からはずれるという批判に弱い。)

- ひとまずのむすび -
わたしは少年時代には自分の文字づかいにこのように筋を通そうとしたのだが、おとなになってからはだいぶ世の中の文字づかいに合わせて妥協するようになった。しかし、疑問を感じたときは漢字よりも「かな」を選ぶことが多い。

なお、かなの多い文では単語の区切りがわかりにくいことがある。字の間をあける「わかちがき」をするのが筋だと思う。しかし日本語圏ではその習慣がないのでなかなか筋がとおせない。ともかく区切りが見えるようにするために、かぎかっこなどの引用符や、句読点を、その本来の目的よりも多く使うこともある(今もしている)。この話題は別の機会にしたい。