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もっと植物性たんぱく食を開発してほしい

ヒトという種が今のような形に進化したのは肉食をしたおかげだという説もある。人は動物を食べることなしで生きるのはむずかしいかもしれない。しかし、純粋な肉食ではなく雑食であり、植物を食べることもできる(デンプンは消化できるがセルロースは消化できないというような限られた能力だが)。ほぼ菜食、つまりほぼ植物由来の食べ物だけを食べても健康に生きていくことはできるのではないか、と期待したい。

肉のタンパク質のほうが人のからだを作っているものに近いから栄養としてよいという考えもあるが、タンパク質は胃でアミノ酸に分解して吸収されるので、タンパク質としての形は違っていても、アミノ酸組成が適切で、消化されやすければよいはずだ。タンパク質以外の微量栄養素に植物由来の食材では満たしにくいものがあるかもしれないが、それを栄養素として含む食品をさがせばなんとかなるのではないだろうか。

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わたしが、今はまったく実践できていないが、できれば菜食で生きていきたいと思うのは、動物を殺すことがいやだからでは必ずしもない。

完全な菜食主義ではないが肉を食べない生活を実践しているというSteve Easterbrookさんのブログ記事[Why I don’t eat meat]を見て、自分の希望も基本的に同じだと思った。限りある地球環境になるべくインパクトを与えないで生きていきたいのだ。地球環境のためというよりはむしろ次の世代の人々にとっての資源を減らしたくないということだ。もし地球の容量に比べて世界の人口がもっと少なかったら、そんな心配はしないでぜいたくに食材を選んだだろう。

Easterbrookさんは食べ物の生産および輸送に伴う二酸化炭素排出量(いわゆるcarbon footprint)を参照している。一般に動物性食品は植物性食品よりもcarbon footprintが大きい。これは食物連鎖の段階を経るにしたがって生物体のもつ化学エネルギーが消費される(熱になる)ことを反映している。ただし、食物連鎖の段階とcarbon footprintとは必ずしも単純な関係にない。牛肉がとくにcarbon footprintが大きいが、これは現代の牧畜ではトウモロコシなどの穀物飼料を与えることが多く、穀物栽培の段階で化学肥料などの工業的にエネルギーをつぎこんで作った製品を投入していることを反映しているようだ。(自然の草原で放牧した場合どうなるかは未確認。)

必ずしもエネルギー資源と独立ではないが、食べ物を生産するのに水をどれだけ使っているかの見積もりもある。たとえば日本の食べ物がどれだけの水を「背負って」いるかを計算しようとすると、外国で生産された品物を仮に日本で生産されたならばどれだけ水を使うかを見積もるか、実際に生産国で使われた水の量を見積もるかの二通りの考えかたがあり、沖大幹さんは前者を「仮想水」(virtual water)、後者を「ウォーターフットプリント」と呼んでいる。桁の見積もり程度ならば区別しなくてもかまわないだろう。環境省に、沖さんのグループの研究をもとにしたvirtual waterのウェブサイトがあり、「仮想水計算機」のページを選ぶと、単位量の食べ物にどれだけの水が使われているかの表がある。実際に食べ物の数量を入れて仮想水の量に換算することもできる。これも、牛肉がとくに大きい。

もちろん、人間活動の自然環境へのインパクトは、人間が自然界からくみ出したうえでつぎこんでいる資源だけではない。Easterbrookさんもコメントしているが、漁業の大部分は、野生生物の資源を消費しているわけであり、へたをすると種を絶滅させてしまう危険さえある。養殖にしても、そのえさとして野生の魚を漁獲していることが多い。農業の場合は、農地を開拓する際には自然植生を破壊している。

また、今では海から遠いところでもなまの魚を食べることができるし、屠畜場から遠いところでも新鮮な肉を食べることができるけれども、それは、冷蔵・冷凍輸送ができるからであって、使えるエネルギー資源の少なかった昔は、天然氷を確保できる少数の人にしかできなかったぜいたくなのだ。これは動物性食品に限らず新鮮な野菜にも共通するけれども。

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ところが、(日本での)外食や弁当は、おかずとして肉か魚を含んでいるか、デンプン質に偏ってしまうかのどちらかが多く、菜食でタンパク質を含む栄養のバランスのよいものがなかなかない。

伝統的な精進料理はあるが、修行用のものは修行者向けに限られるし、商業的に提供されているものは高級品になってしまって日常に食べるものになりにくい。また、そのタンパク源は、麦の麩(ふ)を別とすると、大豆製品、しかもとうふのたぐい(とうふ、油揚げ、がんもどき、ゆば、おからなど)が大部分をしめる。値段が安かったとしても、毎日食べ続けられるだろうか(わたしは飽きそうだ)。大豆製品にはこのほかに納豆(糸引き納豆)があり、消化はよいが、においと、ねばる「糸」の扱いにくさがある。味噌納豆(大徳寺納豆・浜納豆)や味噌そのものは、塩分が多いので大量には食べられない。

インドネシアにテンペという大豆製品がある。大豆をコウジカビで発酵させて板状にしたものだ。納豆と同様に消化がよいらしく、納豆ほどくさみがなくて扱いやすいので、日本の食事にもっと取り入れてもよいだろうと思う。

大豆製品に限らず、もっといろいろ、考えてみていただきたいと思う。もちろん、とくにこれまで食べられていなかったものについては、食べ続けても安全か、微量成分や混入する可能性のある物質にも注意が必要だが。

そういえば、1970年代初めに「石油タンパク」というものが当時の未来の食材として期待され、また反発もされたが、これは実は石油を栄養源として培養された酵母(菌類)を食料としようというものだった。今は、石油の代わりに生物に燃料を作らせようという時代だから同じ考えの復活はありえないが、別の栄養源によって酵母の培養がまた有望になることはあるだろうか?

他方、最近どちらかというと燃料のもととして期待されているミドリムシユーグレナ)を食材にしようという動きもある。これは動物か植物か分類困難な生き物なので、菜食主義の人が食べる気になるかどうかわからないが、うまく培養(栽培? 養殖?)すれば自然環境へのインパクトが少ない食料生産になりうるような気はする。

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米を主食とするからといって米だけでタンパク質までとろうとするのは現実的でないと思うが、タンパク源の一部として期待することはありうるだろう。

近代以後の日本は、米を精白して食べるのがあたりまえになり、しかも、コシヒカリなどタンパク質の少ない品種が好まれる傾向が強い。1970年代ごろ、鉱毒や農薬による汚染の心配があったときに、汚染物質が胚芽に集中するので、玄米を食べるべきではないが白米ならばかまわない、という話を聞いたことがある。おそらく特定の場合に成り立つ話がその適用範囲を越えた形で広まってしまったのだと思うのだが。今あらためて、玄米あるいは半つき米の食べかたや、コシヒカリとは異質のものとしてのタンパク分の多い米の品種づくりを考えたらどうだろうか。

また、今の日本人はパンや麺を多く食べるので、輸入される麦に依存している。しかし世界の麦作地帯は今後乾燥化が心配されるところが多い。経済を度外視して言えば、裏作の麦を復活させることもありうるかもしれないが、むしろ東南アジアと同様に米で麺を作ったほうがよいのではないか。麦の麺と味が同じではないが、食べてみればこれでかまわないと思う人が多いと思う。この件はタンパク質から考え始めたわけではないが、パンや麺に適した米の品種はコシヒカリよりはタンパク分の多いものになるのではないかと思う。