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科学者は政策決定にどうかかわるか

科学者は政治にどうかかわったらよいかは、むずかしい問題だ。政治と言ってもいろいろな問題があるが、ここでは、政策の決定・選択にしぼってみる。

(ここに書いた考察は、Pielke (2007)の本を読んで、賛同したところと、賛同できなくて自分の理屈を考えたところをきっかけとしている。)

一方で、科学者は、倫理規範のひとつとして、利害にとらわれるべきではない。したがって、政治から独立であるべきだ。他方で、科学は人間がよりよく生きるための知識を得るいとなみなので、それが政策に反映されることが望ましい。

科学と政策決定の境目をどこに置くかも自明ではない。(社会科学との対比では自然科学に含まれるが応用的分野である)工学・農学・医学などの多くの実践は、価値判断を伴っている。しかし、ここでは、政策にかかわりうる科学の課題について、科学的知識は価値判断を含まないとしてみる。政策の目標を決めることは価値判断なので、科学だけでは政策のよしあしを判断することができない。(例外として、自己矛盾を含む政策については、目標がなんであれよくないと言えるが。) しかし、「目標Aを達成するために政策Xは他の選択肢よりも有効である」などといったことを科学が述べることはできるだろう。政策決定者が、目標Aを選択する価値判断をすると、科学の知識を適用して、政策Xが適当だろうと判断できるわけだ。

科学者は、科学者としての機能を果たす限りでは、目標と政策との関係を述べることにとどめ、目標Aが望ましいとか、政策Xを推進するべきだとか言ってはいけないのだろう。

しかし、科学者も人であり、民主主義国では主権者の一員だ。その立場で、価値判断を伴った意見を言うことはできる。そして、課題によっては、科学的知識を持った人が意見を言わない限り、その科学的知識を政策に生かす機会はない場合もあるだろう。そういう場合は、科学的知識を背景とした政策提言をすることは、科学者でもある市民の義務とさえ言えるかもしれない。

矛盾を避けるには、科学者集団の内わけに多様性を認めることなのだと思う。専門知識を共有する科学者集団のうち、一部の人は、価値判断を含まない発言に徹する。別の一部の人は、個人の責任で価値判断をして政策提言をする。どちらの立場であるかは、政策決定者に対しても、科学者集団内部でも、明らかになっているようにする。科学者集団内部では、自分と違う態度をとる人をも尊重しあうようにする。

しかし、いくつか問題が残る。まず、わたしが仮に設定してみた境目をみんなが認めているわけではない。とくに、科学的知識と、常識と思える目標との組み合わせから得られる政策選択については、科学的知識からの当然の帰結だととらえる人も多いだろう。同じ社会に生きている人の間でも常識が必ずしも一致しないことが問題なのだが。

それから、科学者がぜひ発言したくなる場合として、世の中に科学的知識として正しくない(と自分には思える)ものが広まっていて政策決定の根拠として使われようとしているときがある。発言する科学者は、科学と価値判断を区別したうえで「科学的知識を正しく伝えることは科学者の職務だから発言しているのだ」と言うことがある。それに批判的な人は「それは実質的にある政策を推進しようとする政治的な発言だ」と言うことがある。たとえ、科学的知識を正しく伝えることに徹し、その結果どんな政策選択がされるかについて中立を保つ覚悟をしている人でも、なぜその行動に熱心になるかと言えば、科学的知識自体への執念ではなく、まずい政策選択をしてほしくないという思いであることが多い。

だからと言って、そういう人を「科学者の顔をしてこっそり政治活動をしている」と非難するのもあたらないと思う。科学者集団の多様性として、さきほどは二つの類型だけを示したが、その中間の類型もありうるのだ。

[この段落2010-03-25追加、生煮えなのでさらに改訂するかもしれない。] 科学の立場からの認識が「事実がXであれば理念Aを達成するために政策Pが適切だが、事実がYならば不適切だ」という構造であることがある。そして、理念Aは、ここでどう行動するか迷っている科学者S自身(市民として)を含む多くの人々から支持されるものだとしよう。また、科学者Sは(専門科学者として) Xである可能性は低くYである可能性が高いと考えているとしよう。世の中に「Xである。したがって政策Pを推進する」という言論があり、実際に政策に採用される可能性があるとしよう。このとき科学者Sが、専門科学者の集団内での活動(それはYを主張するとともにXの支持者に反論することを含むだろう)のほかに、世の中で学説Xを主張する(あるいはそれを前提とする)言論に出会えば、それに反論して「Yが正しい」と述べることは、科学者として当然の行動ではないだろうか。しかし、その人Sが、政策Pに反対する言論活動をするとすれば、それは原理的には専門科学者としてではなく科学的知識をもった市民としてのはずだ。しかし区別はむずかしい。

(この関連ではいろいろ考えることがあるのだが、なかなかことばにしにくい。少しずつ書いていきたい。)

文献

  • Roger A. Pielke Jr., 2007: The Honest Broker. Cambridge University Press. [読書ノート].