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温暖化すると困ったことになる可能性が高い、と思う

2月28日に気候変化(地球温暖化)の何がどのようによくわかっているのかの記事を書いた際には、その前の1月29日のIPCCの将来に関する個人的考え(その1) 巨視的な小さな国際組織で3つあげた論点のうち最初のものだけをくりかえし、あとの2つは省略した。

  1. 今後1世紀の全球平均地上気温の変化の最大の要因は、(未知の要因または予測不可能な事件が重要にならない限り)、人間活動起源の全球規模の大気成分変化によるものだろう。
  2. この気候変化(温度だけでなく水循環や海水準の変化を伴う)がある程度以上に大きくなると、人間社会にとって困ったことになるだろう。
  3. 人間活動を制御することによって、この気候変化を比較的小さくくいとめることができるだろう。

その2は、「困る」という、価値判断を含む用語を使っているので、価値判断をしないことになっているIPCCはこのとおりのことを言ってはいないはずだ。しかし、仮に「困る」ことを客観的な指標で表現できれば、その事態が実現する可能性を見積もることは、もちろん不確かさの大きい話だが、科学的予測の問題となる。IPCCでは第2部会の仕事であり、わたしにはその報告の多様な内容を要約するのはむずかしいが、気候変化の影響を金額として集計した研究をわりあい簡単に紹介しているほかは、多くの政府が「困る」と思うような影響をあげてその種類別に実現する可能性を述べている。

前の記事と同様に「IPCCはどういう合意を得たのか」という話にしようと思ったのだが、わたしはIPCC第2部会で行なわれている議論を紹介できるほどよく知らない。ここではIPCCを離れて、わたしがどのような理由で「困るだろう」という見通しを持っているのかを説明する。

地球温暖化が困ったことかどうかは自明ではなく、検討してみて初めてわかることだ。このごろは、「地球温暖化は困ったことだ」(というよりも、むしろ「防がなければならない」)ことを当然の前提とするような報道や教材がふえたので、それを疑わない人がかなりいると思う。他方には、それが自明でないことを当然と思い、「困ったことだ」という報道を疑い、さらにその根拠とされているIPCC第2部会などの評価も「困ったことだ」という結論を前提とした偏ったものではないかと疑う人もいると思う。(後者はIPCC第1部会などの温暖化の見通しも疑うことに向かう場合もあるが、温暖化はするだろうが悪いことではないはずだ、という立場もありうる。)

「グスコーブドリの伝記」で大気中のCO2をふやす気候改変(今どきの用語ではgeoengineering)をよいこととして書いた宮沢賢治は、地球の気候が暖かくなるのはよいことだと思っていたにちがいない。少なくとも1930年代当時、東北日本の地域規模で「雨ニモマケズ」でいう「寒さの夏」のほうが困ったことだった。また、スウェーデンの人アレニウスの本にも、温暖化はよいことであるように書かれていたそうだ(わたしは確認していないのだが)。

湿潤温帯の日本にいると、温度が上がったほうが植物の光合成生産量はふえるにちがいないと直観的に思う。(もう少し考えると、温度が上がれば呼吸や有機物の分解も速まるので、正味の生産量がふえるとは限らないのだが。) CO2濃度増加も光合成生産量をふやすほうに働く。品種や作付け方法を変化した気候に適応させる必要はあるが、そうすれば得になるのではないか? 熱帯の病気が広がってくる心配はあるが、感染症を起こすのは病原体や媒介動物の動きであり、温度は副次的要因にすぎない。寒さによる病気が減ることとの兼ね合いもある。海水準上昇は、確かに平野に都市が発達した日本では困ったことだが、温度上昇よりはだいぶゆっくりやってくるようだ。あわてることはないではないか。

しかし、日本の気候変化は世界の気候変化を代表するものではない。そして、貿易そのほかでつながりを強めた20世紀後半以後の世界では、日本社会に影響のある気候変化は、日本の気候の変化だけではないのだ。

このことをわたしに気づかせてくれたのは、1991年に筑波で開かれた気候影響に関する国際会議に来たW.J. Maunderという人[2010-05-25 名前を訂正、下の注参照]の講演だった。自国だけでなく、貿易相手国や、ライバルの国の気候変化も考える必要があるのだ。とくに、「熱帯の気温はあまり変わらないかもしれない。しかし、熱帯の国の経済にとって、熱帯の作物が他の国でもできるようになるのは脅威だ」と言っていたと記憶している。

[2010-05-25注: W.J. Maunder氏 (1932-)は1991年当時の所属はオーストラリア気象庁だったが、ニュージーランドの人。気象情報の産業への応用に関する著作が多い。JはJohn。Wは不明。わたしはWalterだと記憶していたのだが、これは太陽黒点の研究で知られるイギリスの天文学者Edward Walter Maunder (1851-1928)とのかんちがいだったようだ。]

わたしの考えでは、温度よりもむしろ問題は水だと思う。温暖化に伴う水循環の変化は場所によって違い、複雑だ。ただし、もし変化がランダムならば、温暖化対策の必要性には結びつかない。ところが、ある系統的な変化傾向が予想されている。温暖化に伴って、降水が時間的・空間的にますます集中する可能性が高いのだ。(このことは1980年代から予想はされていたものの、確信度が高くなったのは最近だが。) 世界の小麦地帯や牧畜地帯の多くは、乾燥地帯の周辺にある。温暖化すれば降水はふえず蒸発だけがふえて水不足になる可能性は(高いとまでは言えないにせよ)無視できない。米作地帯は大雨の降りやすいところだ。せっかくふえた降水が洪水になるだけで水資源として使えない可能性がある。また、海水準上昇はゆっくりやってくるとはいえ温暖化が続く限り確実であり、それで使えなくなる水田面積は大きい。

日本がもし将来ともお金の意味で豊かだったとしても、このような気候変化のもとでは、食料を輸入できる保証はなくなるのではないだろうか。さらに、食料生産能力が低下した国から人が移住しようとするだろう。いわゆる環境難民だ。日本は、その人たちを受け入れるにせよ、うらまれるのを承知で拒否するにせよ、問題を無視するわけにはいかなくなるだろう。

確かに世界には温暖化したほうが住みよくなるところもある。世界全体として、得か損かの評価はむずかしい。ただし、合計の損得もひとつの指標ではあるが、損をする人と得をする人が別であり、それを補償する実効性のある方法がなさそうな状況では、そればかりを重視しないほうがよいと思う。ともかく補償されない損を小さくする必要があるのだ。また、社会の適応能力は気候変化の速さにもよる。速すぎる変化に適応するのはとくにむずかしいだろう。

温暖化は困ったことだと反射的に思うようになった人は、その逆の寒冷化はいいことなのか、ときかれると詰まってしまうかもしれない。落ち着いて考えてみると、人間社会は今の気候に適応しており(その適応さえまだ充分でない場合もあるが)、温暖化・寒冷化そのほかどちらの方向であれある程度以上の気候変化が起こると、少なくとも充分な適応策を講じないかぎり、困ったことになる、という構造をもっているにちがいない。ただし、適応策が簡単かたいへんか(適応費用が小さいか大きいか)は、具体的な気候変化、そして具体的な適応策を入れて考えてみないと決まらないだろう。

困ったことだという判断は、実は、軽減策(CO2排出削減策など)をとる必要があるかどうか、という判断に連動して行なわれるのかもしれない。そうだとすると、軽減策の有効性、つまり、CO2排出削減をどれだけすればどれだけ気候変化を軽減できるのか、の評価も必要になる。これは基本的には気候システムの科学の問題だが、シナリオは社会的可能性のほうから決まってくる。また、気候変化に伴う損または適応費用と、軽減策の費用との比較、という論法が必要になってくる。

前にも書いたと思うが、気候への適応自体は、世界の人が住むあらゆるところで考えなければならない。しかし、軽減策が必要かどうかを評価するための適応費用の評価だけならば、いくつかの地域を詳しく調べ、それをサンプルとして世界合計を推算するほうがむしろ確実なのではないだろうかと思う。

話をあまりよく整理することができなかった。別の機会にまた考えたい。