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わたしの境界条件となっているノートパソコン

【まだ書きかえます。いつどこを書きかえたかを必ずしも明示しません。】

【この記事は個人的おぼえがきです。自分に対するグチと、世間 (とくに Microsoft社) に対するグチをふくみます。しかし、専門知識を提供するものでも、意見を主張するものでもありません。】

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わたしは、2000年ごろから、(あまり巨大でない) 計算も、文書の読み書きも、1台のノートパソコンでやる習慣ができてしまった。

ながらく裁量労働制の研究職で、重大な秘密をあつかうたちばではなかったので、職場でも、自宅でも (自宅がふたつあったときはどちらの自宅でも)、外出さきでも、きれめなく作業をつづけられるとよいと思った。

パソコンのうちでは、軽くて、頑丈で、メモリー容量がわりあい大きい、したがって値段も高めのものを買うことがおおかった。しかし、いつも持ちあるくので、平均1~2年ぐらいでこわれてしまう。つかいがってが変わるのがいやで、予備として同じ機種の中古品を買っておくことも習慣になった。よのなかにまだつかえるノートパソコンを中古に出してくれる人がいるおかげで、このようなぜいたくができるのだった。

このやりかたの欠点としては、作業中の視野がノートパソコンの画面の大きさにかぎられてしまうことだ。このことは実際にわたしの能力を制約しているとおもう。しかし、それをかえることはむずかしい。いまとなっては、ノートパソコンの画面に制約された能力が、わたしの実力だ。

わたしは、せっかく画面が大きいデスクトップパソコンがあってもそれをあまり活用できない。わたしのノートパソコンは、移動してもつかいがってがかわらないように、ローカルネットでほかのパソコンと資源を共有する設定をしないことにしている。ノートパソコンとデスクトップパソコンのあいだで情報をやりとりするには、USBメモリーかUSB接続のポータブルハードディスク (2000年ごろは、SCSI接続の MO (光磁気) ディスクかハードディスクだった) をぬきさししてコピーするか、(ローカルネットではなく) インターネット上の場所にアップロードしてダウンロードする方法をとる。必要ならばやるけれども、ノートパソコンのうちでなんとかできるのならば、そうしてしまいたくなるのだ。

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わたしの境界条件となっているノートパソコンの OS については、変遷がある。

1990年代後半、MS-DOS ユーザーの多くが Windows 95 にむかったとき、わたしは Linux にむかった。文書作成も、e-mail も、Linux でやることにした。デスクトップパソコンは、OS がはいっていないものを買って Linux 専用にしたことがある。ノートパソコンについては、Windows がはいっているパソコンの内蔵ハードディスクを分割して Linux の区分 (partition) をつくり、起動時に区分を選択できる機能 (当時どういう名まえだったかわすれてしまったが、いまつかっているソフトウェアの名まえは grub) をつかうことにした。わたしはときどき、Windows でうごく 地図、辞書、翻訳、OCR などのソフトウェアやネットワーク接続機能をつかいたいことがあった。そういうときは Windows で再起動することにすれば、もちあるくパソコンは 1台ですんだ。ハードディスクに Linux と Windows の両方から読み書きできる区分をつくってデータをうけわたすこともできた。

ところが、2000年代、わたしの職務のうちに、多数の人がかかわるプロジェクトのしごとがふえ、Microsoft Office の書式で書類をつくらなければならないことがふえてきた。MS Office と にた機能をもち Linux でうごくソフトウェア (かつての OpenOffice、いまのLibreOffice など) もあって、欧米の事務で要求される書式ならばそのくらいの互換性でじゅうぶんとおもわれるのだけれど、日本の事務の書式は芸がこまかくて、OpenOfficeで編集して MS Office で読むとページ数がかわってしまうことがしょっちゅうある。わたしはそのころ、MS Officeが必要なときは職場の共通の Windows パソコンをつかったが、自分の席にいる時間よりもパソコンべやにいる時間のほうが長くなってしまった。

それから別の職にうつって、しばらく Windows ばかりつかっていた。

2013年ごろ、また Windows と Linux の選択起動をやろうと思ったのだが、Windows の状況がかわっていた。Windows は頻繁にアップデートされる。そのうちにはセキュリティ上重要なものもある。アップデートしないでインターネットにつなぐのは、悪意をもつ者に踏み台を提供する悪事だとまでいわれるようになった。しかも、Windows のアップデートは再起動を要求することがとても多い。選択起動の既定値を Linux にしていると、Windows のアップデート中に Linux に行ってしまってわけがわからないことになる。Linux も頻繁にアップデートすべきとされている。ただしこちらは、カーネルとその他の分離がしっかりできているので、カーネルのアップデートでなければすぐ再起動する必要はない。選択起動の既定値を Windows にすればよいのだが、そうすると Linux を起動するきっかけがますますへってしまう。

Windows が 10 になってますますひどいことになった。アップデートをさぼっていると強制的にアップデートがかかり、それで再起動してしまうこともある。アップデートがおこる時間帯をえらべるようになっているが、わたしはノートパソコンを昼間につかうことも夜中につかうこともあり、自動再起動されてかまわない時間帯などない。わたしは、自動アップデートを禁止し、ときどき手動でアップデートすることにした。それをするための手つづきを、ウェブをいろいろ検索してみつけることはできたのだが、それは一般のユーザーのためのマニュアルに書かれていない、ローカルネット管理者のための機能らしかった。同じマシンに Linux をいれる気にはとてもなれない。(Windows 上でうごく Linux 互換の機能が提供されていることは知っているが、わたしがそれで満足できるとは予想していない。)

わたしはこのごろふたたび、Linux をつかうことがふえてきた。そのつかいみちは いまのところ 計算と画像処理だけだが、一連の処理の途中で職場と自宅とのあいだなどを移動したいことがある。Windows と Linux の選択起動をあきらめたので、 2台のノートパソコンをもちあるくことになった。