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財政・経済政策についての意見 -- Z派でもなく、アンチZ派でもなく、再分配重視

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたか、かならずしもしめしません。】

【この記事は、財政や経済政策についてはしろうとであるが、日本の国政の有権者ではある、個人としての意見をのべるものです。】

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いま、感染症への対処が当面の最優先課題になっているが、この記事は、それに直接かかわるものではない。しかし、感染症の対策として国が何かを実行するべきだという提案がでてくると、その財源はどうするかというところで、この記事であつかうような議論が出てくる、という意味では、関係がある。

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財政や経済政策について、ネット上のわたしの目にふれる部分では、(仮称)「Z派」と 「アンチZ派」がそれぞれ集団をつくり、それぞれなかまうちで主張をたしかめあい、両派のあいだでは議論がなりたたなくなっている、という感じがする。

ここでいう「Z」の第一の意味は、「財政規律」あるいは「財政均衡」、財政赤字をふせぐことが最重要という態度だ。第二の意味は財務省だ。財政規律論をとなえる論者は財務省と利害が一致しているとはかぎらないが、アンチ財政規律主義者とアンチ財務省派とのかさなりは大きいと思う。

わたしは Z主義にもアンチZ主義にも くみしたくない。

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この論争を、わたしはこのように理解している。

「国の収支」というときの「国」には、おおきくわけてふたつの意味がある。ひとつは国民経済としての国 (便宜上「国民」ということばをつかうが、国籍とは関係なく、国土上でおこなわれる経済活動の全体である)。もうひとつは、行政機構としての国。

Z主義者は、行政機構としての国の収支に注目する。国債は国の借金であり、それがふえるのは赤字だと考える。赤字は国の信用がなくなり、へたをすると「国が破産する」のでとても悪いことだ。(破産するとどうなるかは自明でない。外国に支配されるのか? 民間金融資本に支配されるのか?)

Z派は、収支均衡がのぞましいのか、黒字が大きいほうが望ましいのかによって、分裂するはずだ。しかし、累積黒字が現実におこりにくいので、この分裂は表面化しないだろう。

Z主義が正論とされると、公共部門のサービスの廃止・縮小と、増税とにむかう。どちらも抵抗があるので、両方がすこしずつすすんでいるのが、2000年ごろ以後の日本の政治の状況だと思う。どちらを重視するかによって、Z派は緊縮派と増税派にわかれるかもしれない。ただし、増税派とまとめられるうちでも、何に税金をかけるべきかの判断はちがい、おたがいにあいいれないこともある。

アンチZ派は、行政機構としての国の収支を重視しない。国債がふえても、その買い手が自国内の経済主体であれば、国民経済としては赤字も黒字でもないし、民間部門だけをみれば黒字であり、国は民間部門をゆたかにする政策をとっている、とみることもできる。

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日本の政治が、Z派優勢なのは、財務省が実質権力をもっているからだという説がある。たしかに、省庁間の力関係で、省庁が何かやろうとしても財務省が予算をつけないからとおらない、という構造はある。また、政権与党が、自民党でも、民主党でも、Z主義が(おおまかには)変わらずつづいた、ということもいえるかもしれない。

その認識のもとに、アンチZ派のうちには、「財務省を廃止せよ」という人もいる。もっとも、行政機構としての国の収入・支出の管理をする組織がなくてすむはずはない。財務省廃止論の合理的解釈は、歳入庁と歳出庁をわけ、指揮系統を別にせよ、ということらしい。

わたしは、省庁間関係で財務省がつよすぎるのはたぶんほんとうで、是正すべきところがあると思うが、政治家との関係で財務省がいつも優勢だとは思わない。(昭和戦後時代には、与党政治家のうちに大蔵官僚経験者がわりあい多く、ここでいう財務省的考えかたがひろまりやすい傾向はあったとは思うが、いまはむしろ経産省の影響力のほうが大きいと思う。)

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「小さい政府」主義 (民間企業の活動に期待し、公共部門がになう業務をへらす)で、税金は将来ともやすいほうがのぞましい、とする考えかたが正論とされがちになったのは、1990年ごろからの工業先進国共通の傾向だと思う。

そこで、

  • 企業活動が活発になれば、安い(しかしゼロではない)税率でも税収があがるから、公共サービスをまかなうことはできるのだ、という楽観主義(Z主義になることもならないこともある)か、
  • 財政均衡が重要であり、将来の経済は不確かだから、公共サービスを縮小しようという緊縮的Z主義か、

という わかれ道があると思う。

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外国との比較をしっかりしたわけではないが、日本は、外国とくらべて、Z主義が正論とされやすい傾向がつよいらしい。

それは、1955年から1993年までのいわゆる「55年体制」で、「保守」と「革新」が明確で、政権与党がずっと「保守」だった時代のせいだろうか?

「革新」の政治家は、公共料金の値上げに反対した。また、大資本がもうけるような公共事業や、軍備への支出に反対し、それよりも社会福祉への支出を主張したこともあったが、それをやめて税金を安くせよと主張したこともあった。

他方、「保守」の政治家は、公務員の働きが悪いと言って、公務員の給料を安くおさえたり、公共部門でやっている仕事を民間企業にやらせたほうがよいと言って、公務員の数をへらすことを、よい政策として主張することがおおかった。

政策論争は、なにが「むだな公共支出」であるか、になりがちだった。「むだな公共支出」をへらすべきであることは、自明の前提だった。

しかし、1990年ごろまでは、国民全員の健康保険など、社会保障を整備することは、もうひとつの正論とされていた。その部分で支出がふえて、「むだな支出をへらす」だけではまかないきれないことは、必然としてうけいれたうえで、国債をふやしてよいか、増税をしなければならないか、という判断をめぐって、ここでいう、アンチZ主義と、Z主義とが、わかれたのだと思う。

ところが、1990年代以後、「共産圏」がなくなったからかどうかはよくわからないが(日本の「革新」派が「共産圏」の政治をよいと思っていたとはかぎらないから)、それまでの「革新」勢力のいきおいがなくなってしまった。そして、資本の利害につごうのよい政策が正論とされがちになった。

【ここでわたしは「資本の」と書き、「資本家の」と書かなかった。アメリカ合衆国や西ヨーロッパには大資本家がいるが、日本の大企業の経営者は、給料とりにしては高い給料であるとはいえ、給料とりの雇われ人であることが多い。そして、企業によってまちまちではあるが、株主は経営にはかかわらず、ただ収益性だけを期待することが多いだろう。企業経営は、人である資本家(株主)の願望でもなく、人である経営者の願望でもなく、その両者をうけた、機械的なしくみである企業の利害でうごいているところがあると思う。】

増税が必要ならば、消費税がふやされ、減税ができるならば、所得税の累進課税がへらされたり、法人税がへらされたりした。

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わたしは、つよい意味でのZ主義者ではない。行政機構としての国の借金をゼロにする必要はないし、それがふえることをいちがいに否定するべきでないと思っている。

しかし、アンチZ主義者でもない。

アンチZ主義者の説明によれば、国債は、(自国通貨だてであり、国内の人が買う、という条件ならば) 行政機構としての国の借金ではあっても、国民経済にとっては借金ではなく、国内の経済主体が行政機構としての国に貸しているだけだ。そこまでは、みとめよう。

アンチZ主義者によれば、それはいくらふえても悪いことはない、という。わたしはそこは賛成できない。国債が有効なのは、行政機構としての国に、信用があるからだ。財政赤字がふえて、国が信用をうしなえば、国が統治能力もうしなうおそれがある。もしインフレがうまくすすんで、国債の返済は名目通貨額でよいとすれば、国がむかしの国債の返済にこまることはなくてすむけれども、そのさき、国債の借りかえをつづけることがむずかしくなるだろう。

国債を財源にして通貨(日本ならば日本銀行券)を発行することによって、実質経済を拡大できれば、うまくまわる、ということは、ありうるだろう。しかし、かならずそうなる、あるいは、政策当局が失敗しなければかならずそうなる、というのは楽観しすぎた態度だと思う。いまの世界の人間社会は、地球環境と天然資源の限界に直面しているのだから、経済にともなう物理量の指数関数型の成長は不可能だ。そのもとでも、経済量の指数関数型の成長は、ありえなくはないが、とてもむずかしいことであり、それを前提として政策をまわすのは危険なことだと思う。

国が信用をなくすような政策をとらないように気をつけることを前提として、財政の累積赤字をへらそうとしなくてもよいと思う。累積赤字が、ふえたり減ったりするゆらぎの中で、一時的にふえるのは許容できる。しかし、指数関数型にふえることは許容できない。たとえば、直線型でふえつづけるのはどうか、となると、内容にたちいって判断する必要があると思う。人口の将来みとおしやその不確かさをもふくめて、考慮する必要がある。

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(今回の記事では話を簡単にしておくが) 経済規模の拡大をかならずしも期待できないのだから、貧困をへらすためには、再分配を強化することが必要だ。所得税、法人税、相続税などの累進課税をつよめるべきだと思う。【ただし、税金をはらうために生業の基盤や文化財的価値のあるものを切り売りしなくてすむような、個別事情を考慮した措置も必要になると思う。たとえば、所有権を公共部門に部分的に移転するとか、全面移転したうえで借りるとか... それを運用するために、公共部門の職員が必要になってしまうが。】

また、とくに学術・文化に対しては、公共部門からの支出も必要だが、それと並行して公益寄付も奨励するべきだと思う。