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引用符のなかまの役割分担を決めたい

【この記事は まだ 書きかえることがあります。 どこをいつ書きかえたか、必ずしも示しません。】

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最近1年間ぐらいのうちに、次のような主張を読んだ覚えがある。

「引用符は引用をあらわすものだ。それ以外の目的に使ってはいけない。」

ただし、どこで読んだか、だれの発言だったかを覚えていない。ことばも正確に覚えているわけではなく、上のかこみのかぎかっこの中の文はわたしが記憶から構成したものだ。したがって上のかこみの内容は正確には引用ではない。かぎかっこが引用符だというのはよいと思うので、上のかこみの内容を書いたわたしは、かこみの内容の指示にしたがっていないわけだ。

上のかこみのような発言をするのは、歴史学、哲学、文学を含む人文系の研究者や編集者だろう (ただし、そのすべてではない)。

文献を論評したり、参考にしたりするとき、もとの文献の文字づかい (必ずしも著者自身の文字づかいでなく、出版あるいは写本ができたときの文字づかいだとしても)を伝え、読者がそれを確認できるようにしたい、という趣旨はわかる。

原文をそのまま書いたのでは長すぎることがあり、省略は必要になる。そのときは、「 ... 」などの記号を一定ルールで使うことになっている。欧文では、文の頭であるかどうかによって大文字と小文字が変わることがあり、原文では文の途中の「this」を文の頭として引用したい場合には「 [T]his」のような形で明示しているのを見ることがある。

わたしは、自分がふだんから上のかこみのような規則に従うのはとても無理だと感じている。しかし、そういう規則をもつ本や雑誌に文章を出すことになったら、その規則を尊重して従う努力をしたいと思う。

しかし、引用以外の場面で、引用符と区別されてもよいが、引用符と同類の記号を使えることは必要だと思う。

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日本語を漢字かなまじり文で書くときにふつう使う引用符は、かぎかっこ(「」)、二重かぎかっこ(『』)だ。同じものの開き・閉じが対応する。かぎかっこ による まとまり のうちに かぎかっこ が含まれるときは、内側で二重かぎかっこを使う。

その第1の使いかたは、引用だと言ってよいと思う。わたしは小学校のときに、かぎかっこの使いかたを習った。そのときは、「引用」ということばは使われず、およそ「人の発言を伝えるときに使う」というような表現だったと思う。(それが引用と同じかちがうかについては、あとで議論したい。)

第2の使いかたとして、本などの題名を示す場合がある。この使いかたも、著者なり出版者[注]なりが決めた題名の文字列を忠実に伝えることになるので、「引用」の意味をやや広げればそれに含まれるとも言えそうだ。

  • [注] わざと「出版社」と書かなかった。出版者は、学会など、会社でない場合も多いからだ。

小学校で習った規則は、題名の場合も「」が基本で、「」の中にきたときだけ『』、だったと思う。しかし、近ごろ見るいくつかの学術雑誌では、本の題名は『』と決めてあることもある。

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日本語の出版物のうちで、欧文由来の「“ ”」などの引用符を見かけることもある。それとかぎかっことの使いわけについては一般のルールはない。出版物ごとにルールを決めていることはあるだろう。そのときごとの感覚で使っている人も多いと思う (わたしの場合もそうだ)。

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きびしい意味の引用ではないが引用符を使いたい場合の第1として、引用ということばを ゆるい意味[注]で使えば含まれそうなものがある。他人の言うことを伝えたいのだが、表現がもとの発言や文章のとおりでない場合だ。

  • [注] 「広い意味の引用」と書くと「それは引用ではない」としかられそうなので、別の表現を考えた。「狭い意味」「広い意味」にだいたいあたることがらを[2013-09-13の記事]では「鋭い」「鈍い」と表現してみたが、ここでは「きびしい」「ゆるい」としてみた。

わたしの小学校のときにならった「人の発言を伝える場合」でまず想定されたのは話しことばだった。話しことばは、正確に記録しておらず記憶によって再構成することが多い。わたしは、書きことばを「伝える」場合も同様に考えたので、引用符の使いかたはきびしい意味の引用に限るとは思わないまま育った。理科系[注]の専門文献でも(他の著作を細かく批評するときのほかは)、ことばを正確に伝えなくても趣旨が変わらなければよいとされることが多い。文科系の文献できびしい引用に限定することがあるのは、あとで知った。

  • [注] ここで「理科系」「文科系」ということばは、とてもおおざっぱに使っている。すべての学問を二分してしまおうなどという意図はない。

第1のものの変種として、自分の意見とちがう意見を想定してみたい場合がある。たとえば、次のかぎかっこの使いかただ。

「日本は核兵器を持つべきだ」という意見に、わたしは賛成しない。

このくらいの長さならばかぎかっこなしでも読めるが、もっと長くなると、意見の内容をかこむ記号がほしくなる。

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きびしい意味の引用ではないが引用符を使いたい場合の第2として、単語を典型的でない意味で使う場合がある。次のような場合を含む。

  • 世の中の人が言う○○ (自分はそれが○○であるとは思わないが)を「○○」と書く。
  • (世の中ではふつう○○と呼ばないものを) 自分があえて「○○」と呼ぶ。

たとえば、今の日本は常識的に見て戦争中とは言えないが、ある意味で戦争中と似た状況にある。その「ある意味」を伝えるために、かぎかっこつきで「戦争中」 と表現する。

第2のものの変種として、見慣れない単語を持ち出すとき。あるいは、強調したいときがある。これは、日本語では傍点か傍線、欧文ではアンダーラインかイタリック体、HTML では <em>...</em> か <strong>...</strong> が 適切なのかもしれない。しかし、機械への文字入力で文章を書いていると、傍点などは技術的にできなかったり、できてもてまどるので、(わたしは)かぎかっこで書いてしまうことが多くなった。同様にかぎかっこを使う人が多いかどうかは確かめていないが、めずらしくはないと思う。

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引用符には含まれないと思うが、そのなかまであるものとして、かっこ[括弧]がある。「( )」が基本で、「{ }」(波かっこ)、「[ ]」(角かっこ)も同類だ。

論文、とくに自然科学系の論文は、かっこなしでは、まず書けないだろう。かっこが多重になる場合の対策、かっこ類の使いわけなどは、一般的ルールはあまり明確ではなく、出版の場(雑誌など)ごとのローカルルールや、専門分野ごとの習慣などによっていると思う。

わたしは、文章を書くときのかっこの役割を次のように理解している。かっこは、文を補足する情報を与えるための記号だ。かっことその中身をいっしょに省略しても、文は形式的にも正しく、基本的意味も変わらない(ように書くべきだ)。

しかし、数式でのかっこの意味はちがう。そこでは、かっこは、要素をまとめるための記号だ。かっことその中身をいっしょに、ひとつの(変数をあらわす)文字で置きかえて、その置きかえを示す式を別に書けば、式は形式的にも正しく、意味も変わらない(ように書くべきだ)。

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そこで、きびしい意味の引用ではないが引用符を使いたい場合の第3として、数式でのかっこと同様に、(数式でない) 文のうちでの語句のまとまりを示したい場合がある。

条件つきの議論どうしを比較するときなど、まとまりを示しておかないと、とても読みにくい。そこで、わたしは、かぎかっこを使ってしまうことが多い。

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引用符のなかまは複数の形があるので、きびしい意味での引用と、それ以外に引用符のようなものを使いたい場合で、記号を区別することは可能だと思う。

ひとまず、日本語の中で、きびしい意味の引用にかぎかっこを使うと決めたとしよう。それ以外の場合にはどんな記号を使ったらよいだろうか。

思いあたるのは、山かっこ(ギユメguillemets)「〈 〉」、二重山かっこ「《》」だ。これは、フランス語では引用符として使われている。日本語で使われる場面は限られているが、使うならば〈単語を典型的でない意味で使う場合〉が多いと思う。

【わたしが学生のとき読んだ本のうちには、山かっこを使ったものもあったはずだが、わたしはかぎかっことの区別を気にとめなかった。本や雑誌の題名を示すところで使われていたというおぼろげな記憶があるだけだ。

ところが、わたしが共訳者になった本[読書ノート]の題名の内で使われてしまったので、わたしはのがれられなくなった。原題には discovery ということばが引用符なしで含まれているのだが、日本語版の出版社が山かっこを使った。わたしはその理由を聞いていない。この本の場合、山かっこの必要性は大きくないと思う。しかし、同じ出版社から出た別の本[読書ノート]の場合は、あきらかに文字どおりではない意味で使われている。】

ここでわたしは、〈きびしい引用には かぎかっこ を、それ以外は山かっこを使う〉という方式を提案したい。もちろん、それは、その方式を採用する著者や出版者がふえないとなりたたない。しかも、わたしは、これまでの かぎかっこ を多く使う習慣を簡単に変えられそうもない。ときたま、山かっことの使いわけを試みてみようと思うところまでだ。