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福祉、welfare、厚生

日本では外食や衣服のうちに(日本人の所得分布のうちでは比較的に)貧しい人でも買えるような値段のものがあることを、日本型の福祉である、というふうに述べていた人がいた。わたしはその認識が正しいかどうかわからないが、仮に、比較対象となる国では社会福祉制度が発達しているが最低限の衣食住の費用が高いせいで貧しい人が社会福祉制度に頼らなければならない可能性が高いならば、いちおうもっともだと思う。ただしこれは、今の日本の社会福祉制度の水準が充分だと思うという意味ではない。

この件についての人々の議論を少し追ってみると、日本の社会のありかたに関する認識や、社会福祉政策・経済政策がどうあるべきかに関する意見のちがいによる議論もあるのだが、ことばの意味のくいちがいによる部分もあることがわかった。経済学用語で英語ではwelfareと表現されることがらが、日本語では「厚生」とされ「福祉」とはされないことがあるのだ。わたしは「厚生経済学」という分野名は知っていたものの、経済学の専門文献をめったに読まないので、英語と日本語の用語が結びついていなかった。英語の一般向けの本の経済学関係の話題でwelfareが出てきたら特に気にしないで「福祉」と置きかえてきたと思う。

これからは、「厚生経済学」の分野名やその関連の専門的議論の紹介の文脈では「厚生」を使おうと思うが、そのほかの文脈では「福祉」を使い続けるつもりだ。しかし、日本語圏にはこのことばを違った意味の広がりで使う人がいることを認識したので、自分はどういう意味で使うかを明示するよう心がけることにしたい。

わたしは「福祉」ということばは本来「幸福」とほとんど同じ意味だと思っている。ただし、「幸福」が各人の心のもちようの問題とされがちであるのに対して、「福祉」はいくらか(ただし完全にではなく)即物的であり、いくらか(ただし完全にではなく)人と人との間で比較したり合計したりすることが可能なものごとをさしているように思う。

フランス革命前の啓蒙思想家Chastellux (シャトリュ)による、英語訳でAn Essay on Public Happinessという題名の本を読んだことがある[読書ノート]。「人民の幸福」を政治の目標とするべきだと言っている。わたしは社会思想史に詳しくないが、「公共の福祉」という考えかたはこのあたりから始まったのではないかと思っている。

健康保険(国民皆保険)や生活保護(給付)などの制度をさして「社会福祉」あるいは「福祉」ということばの使いかたが現にあることは認める。けれども、これはもともとはいわば「社会福祉政策の具体的施策」というべきものの省略表現であり、「福祉政策」は「福祉(≒幸福)を充実させることを目標とする政策」だったのだと思う。

「厚生」ということばは「わたしの辞書にはない。」 もちろん「厚生省」「厚生労働省」という役所の名まえの要素としては使うし、経済学の学術用語として存在することは最近覚えた。しかし、それ以外の文脈では、わたしは「厚生」という単語を使いたくない。わたしの日常言語で kôsei といえばいつも別のものが先に出てくるからだ。まず「構成」だ。これは「する」をつけた動詞としても名詞としてもたびたび使う。それから「校正/較正/更正」がある。これも「する」の形でも名詞としても使う。(この3つは、わたしの主観としては、古典漢語の語源を離れて、同じ日本語の単語になってしまっており、各専門分野の習慣で書きわけられるものだと思っている。) また「公正」がある。これは「な」をつけた(学校文法用語でいう)形容動詞として認識しているが名詞として使う可能性もある。以上いずれもわたしが社会制度を論じる文脈で使いそうな単語であり、もうひとつふやしたくないのだ。なお、「恒星」もあるが、さすがに文脈が違うだろう。「後世」もつい使ってしまうことがあるが「のちの世」としたほうがよいと思っている。