macroscope

( はてなダイアリーから移動しました)

順問題と逆問題

わたしの頭の中の辞書では、「順問題」「逆問題」の意味はだいたい次のようになっている。

  • 「順問題」(forward problem): 原因から結果を知ろうとすること
  • 「逆問題」(inverse problem): 結果から原因を知ろうとすること

これは気象学を含む地球物理学の分野の習慣的用語づかいだと思う。そして、順問題の典型は、「Newtonの運動方程式と初期条件(時刻0での物体の位置・速度)を与えられて、それ以後の物体の位置・速度を知る」ことである(と思っていた)。

ところが、科学史の本を読んで、この問題が「逆問題」とされているのを知って驚いた。最初に気づいたのは山本(1997)の本の1章「『プリンキピア』の問題設定と論理構成」の2節「『プリンキピア』の問題設定」の次のような記述(5ページ)だった。

18世紀をとおして一般的に使われていた用語では、運動から力を導き出すのが「順Newton問題(Direct Newton Problem)」であり、それにたいして力から軌道形を導くのは「逆Newton問題(Inverse Newton Problem)」といわれる。Aitonによるとこの言葉遣いは特別なものではなかった。(6)
今世紀はじめの1906年出版のLoveの『理論力学』でさえも、先に楕円軌道から逆2乗の引力が導かれ、その後の運動方程式を解く問題をinverse problemと記している。(7)

  • (6)
    • Aiton, E.J., "The Invers Problem of Central Forces", Ann. of Sci., 20 (1964) p. 81.
    • Volk, O., "Miscellanea from the History of Celestal Mechanics", Cele. Mech., 14 (1976) p. 367.
  • (7)
    • Love, A.E.H., Theoretical Mechanics, 2-nd. ed. (1906 Cambridge U.P.), p. 45.

山本氏は科学史の専門教育を受けた人ではないので用語が特殊である可能性もあると思ったが、最近、科学史の専門教育を受けた人の話を聞いてみると、Newton自身やその後のNewtonの思考をたどる人の用語としてはそれが正しいのだ。確かに、Newtonの立場になって考えてみれば、「Keplerがまとめた惑星の運動の形を説明する力はどんなものか」という問いが先にあり、「力が与えられたときに運動はどうなるか」という問いはその「逆」であるというのはもっともだ。

わたしは「Newtonと今の地球物理学者との用語はまるで逆だ」と思ったのだが、よく考えるとそうではなかった。今の地球物理学者の「逆問題」は、「Newtonの順問題」と同様な「地球の流体なり固体なりの運動からNewtonの運動方程式を導くこと」ではない。さきほど述べた(わたしが思っていた)順問題の典型に即して言えば「あとの時刻の物体の位置・速度から初期条件を知る」ようなことだ。「順問題」でも「逆問題」でも運動方程式などの基礎方程式は正しいとみなされて前提となっているのだ。

【[2022-11-27 補足] わたしは「Newtonの順問題」をよく理解していないので、上の「...と同様な」というわたしの類推は不適切かもしれない。】

地球物理での「逆問題」の多くは遠隔観測(remote sensing)の問題だ。大気中の電磁波(光や赤外線)、海水中の音波、固体地球中の地震波などが、どこかにある波源から射出され、媒質を通り(そのうちに散乱・屈折などが生じることもあり)、どこかにある観測点に達して観測される。波の伝達の理論をすなおに使うと、波源と媒質の情報が与えられれば、観測点で観測されるべき波の特徴が得られる。これがこの場合の「順問題」だ。しかし現実の地球についての課題は、多くの場合、観測点での波の特徴から、波源と媒質との両方の情報を得ることだ。そのために、波の伝達の理論の方程式を「逆」に使うことになる。この「逆」は結果が既知で原因が未知という意味だ。なお、順問題が決定論的(deterministic)なものであっても、逆問題は確率論的(stochastic)なものとして構成されることが多い。

なお、固体地球物理でも、大気のremote sensingでも、この意味での「逆問題をとく技術」のことを「インバージョン(inversion)」ということがある。ただし気象学の人はあまり使わない。気象学では英語の「inversion」は日本語では「逆転層」つまり対流圏内にあるにもかかわらず上のほうが気温が高くなっている状態をさす用語になっているからだ。

現実の大気や海洋の運動では、摩擦などによる散逸があるので、決定論的な運動方程式を逆(inverse)に解こうとすると無理が生じる。他方、確率論的な問題としては、基礎方程式のアジョイント(adjoint)というものを作っておき、順方向(forward)は本来の基礎方程式を使い逆方向(backward)はアジョイントを使って往復することによって理論と観測との残差を最小化する方法が構成され、「4次元変分法」と呼ばれる「データ同化」技術の基礎となっている。ただしこの場合の「順」「逆」は時間の向きが過去から未来へかその逆かであり、「逆」をinverseとは言わないようだ。【この段落、説明不足で申しわけないが、これよりも詳しい説明をするにはわたしにはまだ勉強がたりない。】

今の地球物理では、研究の結果として運動方程式が変わることはまず考えられないが、たとえば、固体の応力とひずみの関係を示す構成方程式としてこれまで想定されていたものと違うものを考える必要はあるかもしれない。そういう意味で「Newtonの順問題」と同じ性格をもつ「基礎方程式を知る」問題はありうるのだ。それは「順問題」「逆問題」のいずれとも区別する必要があるだろう。

文献

  • 山本 義隆, 1997: 古典力学の形成 -- ニュートンからラグランジュへ。 日本評論社, 373 pp. ISBN 4-535-78243-1.