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Anthropocene (人類世、人新世) (5) JpGU大会を機会に考えたこと

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたか、かならずしも しめしません。】

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2020年7月15日、オンラインで実施された日本地球惑星連合(JpGU)大会の「歴史 × 地球惑星科学」のセッションで、篠原 雅武さんの発表(セッション世話人による招待講演) 「人新世の時代における世界像の更新にかんする哲学的考察」を聞き、セッション世話人が用意してくれた場での議論のなかで、篠原さんと対話することができた。そこで話したことを、もう一度整理し、補足して、のべたい。

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わたしは「Anthropocene」ということばを自分からつかいたいとは思わないし、つかうことを人にすすめたいとも思わないが、このことばをつかった議論に注意する必要はあると思っている。これまで、このブログで、このように書いてきた。[(1) 2016-02-06] [(2) 2016-02-07] [(3) 2017-01-17] [(4) 2019-09-10]

わたしはAnthropoceneが地質時代名になることはないだろうという予想のもとに「人類世」と書いてきたが、もし地質時代名になるならば、「人新世」となるだろうと思う。今回のブログ記事では篠原さんにあわせて「人新世」と書いておく。

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わたしは、篠原さんが「人新世」に関する本をだしていることを知っている。しかし、残念ながら、読んでいない。

現代思想』 2020年3月号 「気候変動」は、いくつもの記事を読んで、別のブログに読書メモを書いたけれど、篠原さんの論考は読めておらず、読書メモの話題からもはずしてしまった。

現代思想』 2017年12月号 「人新世」は、めくってみたところ、地質時代区分のしくみをふまえた議論は、有賀 暢迪 [ありが のぶみち] さんの「地質学的時空間における科学技術史の変容 -- あるシンポジウムと展示の経験から」だけに見えたので、ほかは読む元気がおきず、読書メモを書くにいたらなかった。

JpGUのときの篠原さんの話題にも出てきた Chakrabarty の論文は、『思想』 2018年3月号も、『〈世界史〉をいかに語るか』の本も、買ったのだが、まだ読めていない。

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「人文学者は人間とそのつくる文化、自然科学は自然現象だけを、それぞれ閉じたものとしてみる傾向があったが、いま、両者の相互作用を考えることが必要になっている」とまとめれば、篠原さんもわたしも同じ方向を向いて考えていると思った。

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Anthropocene という表現が人文学者によくつかわれるようになっていることの背景として、人類が地球環境を変えていることは、なんとなくわかっていたが、「地質学者がそれをみとめた」ということが大きくひびいたらしい。

しかし、こう表現することには、注意が必要だと思う。Anthropoceneを地質年代としてみとめるべきだという提案が、地質科学連合の議題になったという事実はあるが、みとめることにきまったわけではないし、きまるかどうかもわからない。わたしのブログ記事(1)で、それを書いた時点までの議論を紹介した。

人文学者の位置からみると、地球科学のうちがわは区別がつかないだろう。「geologist」 (地質学者)ということばを geo-logist と語源に分解して、「地球科学者」と同じ意味と理解しているのかもしれない。

Crutzen は地球科学者ではあるが、地質学者ではなく、地球化学者だ。Stroermer は生態学者だ。彼らの観点は、人間の影響が全地球におよぶ時代になったという、環境科学者としてはくろうとだが、地質時代区分についてはしろうとの観点なのだ。地質学者のうちには、Zalasiewicz や Maslin (わたしのブログ記事(4)でふれた) のように、Anthropoceneを認定するのに積極的な人もいる(ただし、いつを時代画期とするかではかならずしも一致しない)が、千年よりも短い期間を地質時代として認定することには消極的な人のほうが多いと思う。

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わたしのブログ記事(2)でものべたことだが、人間が地球環境を変える能力をもつようになった(A)ということと、人間が地球環境を制御するようになった(B)、あるいは、制御するべき時代になった(C)、ということは、区別する必要がある(と、わたしは主張する)。(Bは事実認識、Cは規範で、ちがうことなのだが、共通する根はある。)

わたしは現状について、人間が地球環境を変える能力をもつようになったけれども、気候を制御することはとても無理であり、それをめざしてはいけない、と思っている。

しかし Anthropocene がらみの議論では、混同があると思う。Crutzen が、気候への介入 (成層圏エーロゾル注入で太陽光反射をふやす技術)を提案した人でもあることが、混同のたねかもしれない。両者に共通の根はある。しかし、Crutzen にとって、気候への介入は、できればやりたくないことであり、Crutzenの思想は、「気候を制御する時代になった」というものではない。

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「人新世」と「気候危機」(あるいは[2020-04-07の記事]でふれた「気候非常事態」)とは別の問題なのだが、関連づけられやすくなった。もちろん、人間が地球環境を変える能力をもつようになった(上の6節の(A))、しかし、それが人類にとってよいこととはかぎらない、という共通の根はある。しかし、混同しないほうがよいと思う。

篠原さんも言っていたし、わたしもそれだけは気づいていたが、Chakrabarty は地球温暖化に関する情報源として、Lovelock と Hansen を重視している。(彼らには、惑星大気の研究から、地球大気に関心をうつした、という共通点もある。) わたしから見て、彼らはもっともな見とおしをのべていることも多いが、極端なことをおそらく本気で言っていることもある。

Lovelockについては、2006年の著書([読書ノート])や2009年の著書([読書ノート])を見たかぎりでは、地球温暖化について、おおくの科学者の共通見解よりははるかに大きな危険として論じていた。その後、いくらか楽観的になったそうだが、どうかわったかは知らない。

Hansenについては、2008年の著書 ([読書ノート] [日本語版についての読書メモ]) での議論の大部分は、専門家が想定している幅のうちで危険を強調する側に立ったものだが、人為起源で強化された温室効果が暴走して海がなくなるところまでいく可能性にかぎっては、専門家の常識をはずれた極端論だと思った。なお、Hansenはいま自伝のような本を書いていて、原稿をウェブサイトに出している (http://www.columbia.edu/~jeh1/mailings/index.shtml )。その論調をわたしはまだ確認していない。

気候に関する専門家の見識としては、Lovelock や Hansen は典型ではなく、むしろ特異なところがある、という認識もほしいと思う。

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人文学の人たちのまじめな議論のうちに、「人新世」あるいは「気候危機」と人類の絶滅をむすびつける議論がある。とくに『現代思想』 2015年9月号の「絶滅」特集を読んだときに、そういう議論が特集の主流をしめている気がして、これはひどいと思った。

ただし、人類がいなくなることが、人文知の根拠をおびやかす、ということは、もっともだ。

人文学者にかぎらず、現代人として、「われわれは絶滅しうる存在である」ことの認識はあるべきだと、わたしも思う。

また、人間活動起源の環境変化がいくつかの生物種の絶滅をもたらすことは、たしかだ。原因を気候変化にかぎっても、ほぼたしかだ。

しかし、蓋然性としては、人間活動起源の気候変化(いわゆる「地球温暖化」)が人類絶滅をもたらすというのは、わざわざとりあげるには小さすぎる可能性だと思う。(人間活動によって変化した環境での感染症のひろがりによる絶滅や、環境変動に誘発された兵器使用のエスカレートによる絶滅ならば、無視できない可能性はあると思うのだが。)

人間活動起源の環境変化によって「文明がほろびる」ことや、「人類史的大惨事がおこる」ことならば、いくらかの蓋然性はある。

気候対策、環境対策の政策の必要性を主張するためには、人類滅亡をもちださず、もうすこし蓋然性のある大惨事をもちだすべきだと思う。このことは [2015-02-15 の記事]でものべた。

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人為起源気候変化を複数のうちひとつの重要な原因とした人類史的大惨事として、「一億人規模の人びとが、じゅうぶんな食料を得られないため、死ぬ」という事態はありうると思う。

気候変化によって、世界のうちの大地域のいくつかで、食料生産能力がさがることは、じゅうぶんありうる。そこで、もし世界の人びとが協力して適応することができれば、大惨事にはならないですむと思う。

しかし、現代は、人口がふえ、国境線がひかれ、土地所有権がいきわたっているために、(そして、強力な世界政府がないので)、気候変化に対して、移住という方法で適応することがむずかしくなっている。むりやり移住すれば「気候難民」になってしまう。

食料の輸送(商とりひきも贈与もふくむ)による解決にしても、各国が、経済だったりイデオロギーだったりいろいろな事情で障壁をつくるので、いきづまるかもしれない。

いまの、国連を基礎とした気候政策は、領域が明確な国家を前提としていて、適応策のうちで国境をこえた移住は最後の手段で、通常は国家内での解決を要求している。これでは、人類は適応しきれないかもしれない。さらに、今年は、感染症対策のため、国家がそれぞれ閉鎖的になる傾向をつよめてしまった。

どうするか?

強力な世界政府をつくるべきなのか? (これには、人権に対する弊害、文化多様性に対する弊害、指令型経済の弊害などがありそうだ。)

国民国家や資本主義的所有権などの「近代的なもの」をうたがい、それにかわるものをつくるべき時代になっただろうか。それならば、いまは、地質時代のかわりめではないが、人類史の時代のかわりめなのだろう。

これはまさに、人文学・社会科学・自然科学・工学にわたる、知識の共通化と議論が必要な課題だと思う。

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