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Anthropocene (人類世、人新世) (3) 智生代?

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Anthropocene (人類世、人新世) の話[第1部 2016-02-06] [第2部 2016-02-07]の続き。

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David Grinspoonという人が2016年12月18日に、NPR (アメリカの公共放送)のウェブサイトの「13.7 Cosmos & Culture」というところに「A Planet With Brains? The Peril And Potential Of Self-Aware Geological Change」という記事を出している。この中で、人間活動による世界の改変は、地質年代でいう「世」のレベルよりももっと大きく、「代」のレベルだと主張している。

(この話は、水谷 広さんから教えていただいた。)

Grinspoonが提案している時代名は Sapiozoic だそうだ。おそらく西洋の文科系の知識人から、ラテン語由来とギリシャ語由来の要素をつないだ造語はまずいと言われて、何かに変えようということになりそうだと思う。「代」の名まえはギリシャ語由来の「-zoic」をふくむので全体をギリシャ語由来にそろえたいだろうから、Noozoic かと思ったが、新生代の Neozoic と1字しかちがわないのはあまりにもまぎらわしいから、この案にはならないだろう。

もしその意味をとって日本語訳するならば、水谷さんが使っている「智生代」がよさそうだ。(もう少し意見を言うならば、わたしは「知」と「智」は同じ語の表記のゆれと見るべきだと思っており、字の形が簡単な「知」のほうがよいと思うが。)

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人間活動が地球表層環境を大きく変容させたということは言える。松井孝典さんがよく使う表現(たとえば松井 2012の本を参照)を使えば、地球表層環境の内から(「生物圏」とならぶものとして)「人間圏」が分化した、ということはできるだろう。地球表層環境の構造が変わったのだから、新しい時代が始まったのだ、という主張は理解できる。

Grinspoonの提案の名まえのつけかたの背景には、単に人間が環境を変えただけでなく、人間が知的能力をもっていることを重視したいという考えがあるのだろう。熊澤峰夫さんがくり返し言っている(たとえば熊澤ほか2002の本を参照)ように、自分たちが生きる世界について認識し言語などによって記述し継承することができる存在が現われた、ということが、地球史にとっても大事件である、というとらえかたなのかもしれない。

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わたしは(地球科学者のひとりでもある個人の感覚として)、人間活動の影響を、地質時代のうちの事件としてとらえるのはよいと思うが、地質時代区分の中にもうひとつの時代を定義するという形で位置づけるのは無理があると感じる。

地質時代区分は、人間が自然を認識するためにつくった概念的構築物ではあるが、それは、人間専用を意図したものではなく、将来人間とはちがった知的存在が出現したらその知的存在にも共通に通用するような、という意味での客観性をめざしているものだと、わたしは思うのだ。

人間活動が地球環境を変えている度合いがたとえ大きいとしても、その時間の長さが、地質時代の「代」はもちろん「世」をたてるにしても短すぎると思う。

完新世(Holocene)の長さは例外的に約1万年だが、それよりも前の「世」は百万年から千万年の桁の時間規模をもつ。

完新世も、人間にとって最新の時代である(したがって地質情報が豊富である)という状況によって特別扱いされているけれども、純粋に自然を記述する立場で考えたら、約250万年間の更新世のうちの1時期とするのが順当だったと思う。更新世のうち最近の約100万年間には約10万年周期の氷期・間氷期サイクルが見られ、完新世は、そのひとつの間氷期にすぎないのだ。(まだ次の氷期を経験していないので「後氷期」と呼ばれることもあるが。)

完新世を人間活動のある時代と考えるのならば、それは筋がとおる。農業の始まりの時期は、完新世の始まりとあまりちがわない。もっとも、地質時代の画期は、新しい種類の最初の出現ではなくて、地球の(厳密に全域というのは無理だがそれに近いと感じられるほど)広い部分で主要な生物が入れかわる時期をとらえて決めている。農業が地球を広く覆った時期となると、完新世のうちでも新しい時期に限られるだろう。他方、人間活動は、狩猟や、火を使うことによって、地球の動植物相に影響を与えており、その効果は完新世の初めごろから大きかったかもしれない(個々の生物絶滅が人間活動由来かどうかを決めるのはむずかしいのだが)。むしろそちらを重視したとき、「完新世は人間活動の影響が大きい時代」ということになるだろう。

完新世をたてたうえで、そのうちの新しい時期を別の「世」とすることは、わたしは、無理があると感じる。まして、「代」のレベルをたてることは考えられない。それは、わたしの感覚では「代」や「世」という用語にはそれぞれ時間規模が対応していて、それと桁違いの時間規模の期間をさすことばではないと感じるのだ。完新世はすでに例外であり、それが限界で、それよりもはげしい例外を作ることは許せないと感じるのだ。

この感覚は、「人間の時代」が今後どれだけ続くかの予想に依存しているかもしれない。わたしは、人間が地球環境を大きく改変している時代という意味ならば、完新世と同じ1万年よりは短い期間しか続かないと思う。一億年後の知的存在が見たとしたら、新しい時代の始まりではなくて一過性の事件(event)に見えるだろうと思う。世界を知的に認識することができる存在がいる時代という意味ならば、もっと長いこともありうるとは思うが、予想は困難だ。

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科学的概念は、なるべく普遍性をもたせたい。(ただし、科学の進展によって概念が変わるのはやむをえない。)

ただしここで、どの範囲の普遍性をもたせるかは、対象による。

(1) 人文科学(いちおう「科学」に含められるものを想定する)・社会科学の概念では、ヒトには通用するが、他の知的存在がいたとしても通用しない概念を使う必要があることもあるだろう。

(2) 生物学や、地球科学のうちでも古生物を扱う分野では、地球で進化した生物の、たとえば、核酸を遺伝子とするとか、たんぱく質でできた酵素を触媒とするとかいう特徴を前提とすることもあるだろう。他の天体に生物とみなせるものがいたときにそれが適用できるかどうかは、その生物を知ったうえであらためて考えなければならないだろう。(ここから先は仮定のうえの話なので合意が得にくいとは思うが)、この種類の自然科学の知識は、人類滅亡後にまったくちがった生物が知性をもった場合に、その生物にも理解できるものをめざすのだろうと、わたしは思っている。

(3) 生物に関係ない物理・化学の分野では、ヒトにも地球型生物にも限定されない知識をめざそうとするだろう。実際に可能かどうかはわからないが、地球型生物とはまったくちがった知的存在にも通用することが望ましいのだ。

地質年代区分は、地球上の広い範囲をしめた生物の種類が大きく変化した時代を画期としている。(「-zoic」の名まえに見られるように、動物を重視している。植物を重視する人はちがった時代区分を主張したい場合もあるようだ。) これは上記の(2)のレベルの普遍性をめざした概念だと思う。

人文・社会科学の立場、つまり(1)のレベルの普遍性をめざす立場で、産業革命以来の地球環境改変、あるいは近代科学による自然認識の発達が、それ以前とちがう時代だと認識するのは、わたしにももっともだと感じられる。人間社会を制約する条件としての地球環境も、明らかに大きく変容していると言えると思う。

他方、地質学の、(2)のレベルの普遍性をめざす立場で、この変容が画期的だと言えるかは、将来人間以外の知性が発達することへの想像に依存するので、同じ専門の学者の間でも一致しないだろうと思う。

なお、地球物理の人(物理を基本として地球を考える人)にとっては、時間軸は、(3)のレベルの普遍性をめざした定量的な時間目盛り(単位はSI単位ならば秒だが、便宜上「年」も使う)が基本であり、地質時代区分は、地質の文化で育った人と話をあわせるために便宜上使うだけだ。だから、もし、地質の人と人文・社会の人とが、人間の産業活動の影響が大きな面積を覆った時代を特別扱いにしたいのならば、地球物理の人がとくに反対する理由はない。

人文学・社会科学と自然科学が融合した学問が望ましいのかもしれないが、それをめざすことと、人間以外の知性にも通用する科学をめざすこととは両立しがたいと思う。

そして、地質年代区分については、すべての学問に影響しうるとしても、地質学者を中心とする地球科学者の意志を尊重すべきだと思う。そして彼らのうちでもどう変更するかについて合意を得ることはむずかしいと思う。妥協としては、現在の体系を変えない、というのが最善だろうと思う。

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さらに、科学者も人間であり、それぞれ育った文化を背負っている(意識的に反発する場合もあるが)という問題が加わる。

ユダヤ教・キリスト教には(おそらくイスラムにも)、天地創造から終末まで時間が一方向に流れ、そのうちで現在は終末に近づいた特別な時代だという考えがある。マルクス主義や社会進化論思想にも時代画期はちがうが同じ類型の発想が見られる。(わたしの知識は市井(1971)などによる。) そういう文化で育った人には、たとえ自然科学者になって宗教や政治思想にこだわらないつもりでも、文書記録をもつ人類の時代を、宇宙的な意味で特別扱いする感覚がありがちだと思う。

他方、世界には、時間を循環的なものだととらえる思想もある。仏教を生み出したインド思想は輪廻が基本で、時間についても、循環的であるという考えもあるし、一方向に流れるとしても、何十億年にもわたって似たことが波のようにくりかえすという考えがあるようだ。(わたしの知識は入門的な本によるもので、定方(1973)だけは覚えているが、その他は出典も思い出せずあやふやなものだが。) そのような時間観にもとづけば、今の人類が起こしている環境改変や知的生産も、地球史のうちにはたびたびある事件(event)のひとつと見る考えに(必然ではなく蓋然的に)向かいやすいと思う。

近代の科学は、ユダヤ教・キリスト教文化圏で育った。科学の知見の大部分は、仏教その他の文化圏にも問題を起こさず移植できる。生物進化論の場合は、日本のほうが西洋よりも受け入れやすかったほどだ。しかし、地球史と人間の歴史をどう関係づけるかという問題になると、文化摩擦が避けられないかもしれない。学者の国際的な組織では、文化多様性を尊重する努力もみられるが、意思決定を実質的リードしているのは西洋文化圏育ちの人であることが多い (今後、中国やインドの出身の人であることもふえそうではあるが)。そして、文化圏依存の前提を、人類普遍的前提だと思いこんでいることも多いようだ。

学術の国際標準をつくる際には、文化摩擦を回避するべきだ。やはり、地質年代区分については「とうぶん変えずにがまんしよう」が妥協点だと思う。

文献

  • 市井 三郎, 1971: 歴史の進歩とはなにか (岩波新書 青版 800)。岩波書店。[読書メモ (2020-08-12 追加)]
  • 熊澤 峰夫, 伊藤 孝士, 吉田 茂生 編, 2002: 全地球史解読。東京大学出版会。
  • 松井 孝典 (たかふみ), 2012: 我関わる、ゆえに我あり -- 地球システム論と文明 (集英社新書 0631G)。 集英社。[読書メモ]
  • 定方 晟 (さだかた あきら), 1973: 須弥山(しゅみせん)と極楽 (講談社 現代新書 330)。講談社。