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Anthropocene (人類世、人新世) (2) 意図的気候改変(気候工学)との関連

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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[2016-02-06の記事「Anthropocene (人類世、人新世) という新概念の複数のとらえかた (1)」](以下「第1部」と呼ぶ)の続き。

意図的気候改変、いわゆる「気候工学」あるいは「ジオエンジニアリング」の話題を追いかけていると、それとのからみでAnthropoceneにふれた論述に出会う。そのうちには「これからの時代はAnthropoceneであり、人類が気候を制御する時代なのだ」というような論調で、意図的気候改変の必要性を主張しているものがあるようなのだ。

【明確にそう言っている文献をつかまえてその議論の組み立てを論評するべきだと思っているが、まだできていない。もしかすると、積極的にそれを主張している人がいるわけではなくて、反対する対象としてそういう主張を想定してみた人がいるだけなのかもしれない。きょうのところはひとまず、わたしなりに、だれかがそういう主張をするならばこのような論理構成だろうと推測したうえで、それを論評する。】

「気候」は「地球環境」の部分と考えられるので、ここからはおもに「地球環境」について述べることにするが、それを「気候」に置きかえても同じ論法が使えると思う。

次の2つは明らかに違う。

  • (a) 人間は地球環境を変化させることができる。(地球環境の状態にとって、人間は重要な影響の源である。)
  • (b) 人間は地球環境を思いどおりに制御することができる。(地球環境の状態にとって、人間は決定者である。)

第1部の記事で紹介した「時代はAnthropoceneになった」という主張は、Anthropoceneの具体的定義については論者の間でも違うかもしれないが、ともかく、この(a)が実現していることをさしている。

他方、この(b)が実現していないことは、たとえば「地球環境」を「グローバルな気候」に限定して考えれば、明らかだろう。

わたしにとっては(a)と(b)とは遠い。(a)が実現したからといって、(b)が実現する可能性はとても低いと思う。

しかし、世界には、(a)と(b)とは近いと考える人もいる。そういう人のうちに、「Anthropoceneとは(b)が実現している時代であり、現在はそれに向かう過渡期である」あるいは「...であるべきだ」と考えている人がいるようなのだ。さきほども述べたように、わたしはまだ具体的文献をおさえていないのだが、仮にそのような論者がいるとすると、その人のいうAnthropoceneは、第1部で論じられたAnthropoceneとは別の概念であり、同じ文中に出てくるならば用語を区別して論じなければならないものだと思う。わたしはAnthropoceneの意味は第1部で論じたものに限り(その範囲でも多重であるが)、この段落で仮定的に述べた概念を紹介するときは、たとえば「人為制御時代」のような別の表現を使いたい。

Anthropoceneの概念を広めたCrutzen (第1部の文献を参照)が、意図的気候改変(とくに成層圏エーロゾル注入による太陽光反射強化)に関する研究を提唱した人でもある(Crutzen, 2006)ので、Anthropoceneと意図的気候改変とが一体の思想であるように認識している人もいるようだ。二つの議論の発想に共通の根はあり、それに注目して議論することも有意義ではあると思う。しかし、Crutzenの立場では、Anthropoceneはすでに起こっていることであり、意図的気候改変はできれば使わないですませたい非常手段として考えたことなので、両者が直結していないことは明らかだと思う。

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上記の(a)はさらに、環境改変を意図しない行動によるもの(「意図しない環境改変」)と、環境改変を意図した行動によるもの(「意図的環境改変」)に分けたほうがよさそうだ。ただし、この区別も、考えてみると複雑だ。

動力を得るために化石燃料を利用した結果、地球温暖化が起こることは、意図しない環境改変の例と言える。(ただし、その因果関係が明らかになった以後は、いくらか意図的であるという見かたもできるかもしれない。そのあたりの判断は倫理的価値観によって違ってくるだろう。)

川をダムでせきとめることによって環境の一部である川の状態が変わることはどうだろうか。川の水をせきとめたいという意図があったことは明らかだ。(人間社会にとってのその動機は、水資源とか電力とかであり、環境改変自体ではないだろうが。) しかし、土砂がせきとめられることや、水中の生態系が変化することは、意図しない環境改変だろう。

成層圏にエーロゾルを注入することによって地上気温を下げようとすることは、意図的環境改変だ。ただし、それは上記(b)の「環境制御」の水準に達することがあるだろうか。世界平均地上気温などの少数の指標変数を意図どおりに制御することはできるかもしれない。しかし、地域ごとの気温や降水量の変化は、おそらく制御しきれないだろう。さらに、成層圏オゾンにもなんらかの影響があるだろうが、それは(意図的環境改変の副作用として起こる)意図しない環境改変だろう。

(地球温暖化対策の議論で「緩和策」に分類される)二酸化炭素排出削減は、意図しない環境改変の原因を、意図的に弱めることである。これと意図的環境改変とは区別できるだろうか。もし、原因と環境改変との関係が比例関係から遠くて(非線形性が強くて)、原因を弱めるとかえって環境改変が強まってしまう可能性もかなりあるならば、「原因の削減も意図的環境改変の一種にすぎない」という理屈がもっともかもしれない。しかし、二酸化炭素排出の場合は、簡単な比例関係ではないものの、「原因である排出を減らせば環境改変が弱まるだろう」と考える根拠があるので、意図的環境改変とは別の行動と考えることが合理的だと思う。地球温暖化対策の議論で、排出削減を「緩和策」、成層圏エーロゾル注入を「気候工学(ジオエンジニアリング)」という別の類として扱っている根拠はこのような考えにあると思う。

二酸化炭素回収隔離貯留は、環境のうち大気の部分に注目すれば、排出削減と同様に、意図しない環境改変の原因を、意図的に弱めることである。他方、二酸化炭素を持っていくさきの地下の環境に注目すれば、その場所の二酸化炭素がふえることは(人間にとっての目的ではないが)意図的環境改変であり、地中の生態系に起こる変化などは、(意図的環境改変の副作用として起こる)意図しない環境改変だろう。

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上記の(b)のような「人間が環境を制御する」ことを、今すぐにはできないとしても将来できれば望ましいこととして考える発想には、いくつかの違った思想的背景があるようだ。

ひとつは、人間と自然を対立するものととらえるとともに、人間の技術的能力の可能性を楽観的にとらえて、人間が自然を支配することや自然から与えられた制約を克服することが望ましいとする考えかただ。わたしは、子どものころにはこの考えに賛同していた(ような記憶がある)が、今はだいぶ違う考えになっている。

もうひとつは、キリスト教にある(ユダヤ教にも共通かどうかは未確認) stewardshipという考えかただ。わたしは、なん人かの人の著述で出会ったもののよく理解できていないのだが、およそ、「人類は、他の生物のために、世界を住みよい状態に維持する責任を負っている」というような考えだと認識している。

これに対して、人間が環境を制御することは、不可能にちがいないとする考えや、倫理的に正しくないとする考えもある。それが出てきやすい思想的背景をあげることもできるだろう。しかし、技術の発展に楽観的な人でも、キリスト教の人でも、こちらの考えをする人もいるようだ。思想の系列の議論は単純にはできそうもない。

ともかく世界には価値観の違いがある。しかし、価値観の違いをうまく認識できず、世界のみんなが自分と同様に考えていると思っていたり、違う考えはまちがいだと思っていたりする人が多いようだ。政策に関する議論をかみあわせる道は、価値観の違いを理解してそれにかみあう議論を組み立てるか、価値観をたなあげにして行動提起にしぼった合意を得ることをめざすか、なのだと思う。

文献 (第1部の文献としてあげたものは省略)