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奄美空港での事件をきっかけに、いわゆるバリアフリーについて考えること

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

時事問題に関して考えたこと。わたしの記述態度については[このブログの記事の性格 (3) 時事的問題を扱う態度]をごらんいただきたい。

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奄美空港で、車いすで移動している旅客が、飛行機に乗ろうとした。この飛行機にのるには、タラップの階段をのぼる必要があったので、航空会社は、安全にのせることができないという理由でことわろうとした。しかし、この旅客は、手をつかってタラップをよじのぼることができたので、結局、のることができた。(というふうに、事件のあらましを、わたしは理解している。)

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やや一般論的にいうと、ここで問題になっているのは、いわゆるバリアフリー(barrier-free)に関することだと思う。

バリアフリーよりもさらに一般的に、アクセシビリティ(accessibility)あるいはユニバーサルアクセス(universal access)の問題として考えるべきだ、という意見も見かけた。しかし、ひとまず、そこまでひろげないことにする。】

バリアフリーとは、身体障がいなどによって、公共的なものを利用する権利がそこなわれないこと、だと、わたしは理解している。ただし、この「公共的な」は国や自治体に限らず、民間企業のサービスも含むが、どこまで含めるかを決めるのはむずかしいと思う。旅客機の定期便は公共交通機関なのでまちがいなく含まれる。

バリアフリーということばは、もっと狭い意味に使われていることが多いと思う。それは、車いすが必要などの理由で、階段ののぼりおりや段差のあるところの移動がむずかしい人が、交通機関や公共施設を利用することが、不便なしにできることだ。

日本では、「高齢者、身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律」(いわゆるバリアフリー法)が、2000年に成立したので(最新改正は2006年)ので、バリアフリーは法律的にも正しいことだ。

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しかし、公共交通機関は、旅客を安全に運ぶことが必要だ。バリアフリーの原則からは引き受けるべきでも、安全を約束できないときは、ことわるのが正しいだろう。

奄美空港は、バリアフリーの必要性を認めていて、問題のターミナルにも、車いす利用者が自力移動で飛行機にのれるような設備を準備中で、7月末には使えるようになるみこみだったそうだ。しかし、事件の起きたときにはまだ使えなかった。

そして、問題の飛行機を運用していたのは、いわゆるLCC (low cost carrier)、つまり低価格を特徴とする航空会社だった。

この航空会社は、車いす利用の旅客には、そのことを事前に連絡することを求めていた。そして、(設備の整った空港どうしの便では車いす利用を積極的に支援したこともあるらしいが)、奄美空港発着便に関しては、車いす利用者を安全に運ぶ設備が整っていないという理由で、ことわったことがあるそうだ。ただし、車いす利用者を必ずことわったわけではないそうだ。事前に知らされた内容による個別判断があったことになる。

この事態は、バリアフリーの原則からは望ましくないけれども、空港の設備が整っていない状況では、安全輸送の原則からは、大筋では、しかたがないことだと思う。(細かい運用上の問題はありそうだが。)

タラップの階段を、人を、車いすごと持ち上げて上がることも、車いすと別にかかえて上がることも、むずかしい。それを安全にできると約束するためには、特別に訓練した職員を配置しておく必要があり、ふつうの航空会社や空港運営者には、できないだろうと思う。

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問題の車いす利用の旅客は、車いす利用を事前に知らせないで空港にやってきた。もし事前に知らせたらことわられる可能性の高い状況だったらしい。

長期的(年単位)には、バリアフリーの原則どおり、車いす利用者が飛行機にのれるようにするべきだ。LCCであっても公共輸送機関なのだから例外ではない。

しかし、短期的(日単位)な現実的な対応としては、車いす利用者をことわるべきこともあると思う。

ひとつの筋のとおった対応は、「安全を保証できない」という理由で搭乗を拒否することだろう。そして、会社として、バリアフリーを実現できていないことを不当として訴えられることを覚悟することだろう。

もうひとつは、旅客を実際に見ている現場の職員に、安全を保証できるかどうかの判断をまかせるように、あらかじめ権限を委譲しておくことだろう。(その結果、もし保証できないと判断した場合には、上の「ひとつの...」の状況になる。)

実際には、安全を保証できる限界が、車いす利用ではなく、タラップを自力でのぼれることならば、この人は、のれる条件を満たしていたことになる。それで、この事件の短期的問題は、解決したのではないか? (この人の能力に依存した解決ではあるが。)

この特定箇所の長期的問題としては、空港の設備追加はすでに決まっていたので、実質的問題ではなかった。

社会全体へのやや一般化された問題の提起としては、評価がわかれるところだが、わたしは、結果としてはよかったと思う。しかし、もし、旅客がよじのぼることに失敗していたら、もっとややこしい問題になっていたかもしれないと思う。

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ただし、わたしにとっては未確認情報だが、(航空会社の? 空港の?)従業員は、旅客が自分でのぼることは認めたものの、手を貸すことは避けたそうだ。残念なことだ。のぼるのを認めたならば、助けて、早くのってもらったほうがよかったと思う。ただし、その旅客がどれだけからだを動かせるのか、どのようにつりあいをとるのかなどを知っている人でないと、実際に助けることはむずかしかったのかもしれない。また、技術的には助けられたとしても、現場の職員の裁量の余地は小さかっただろうから、現場の職員をせめるべきではなく、航空会社なり空港運営者なりの経営姿勢の問題だろう。

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奄美空港では、便数がふえたのに対して、ターミナルと飛行機をつなぐ通路の整備が遅れていて、LCCの便の発着時刻に通路が使えず、地上におりてタラップをのぼる必要が生じた。

LCCだからといってバリアフリーの実現が遅れることは、原則的には望ましくない。しかし、市場主義ならば、バリアフリーが不完全だから、安い、というのは「自然」なことだろう。バリアフリーが満たされないうちは営業を認めない、というふうに規制すべきか? むずかしい問題だと思う。

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さて、(2011年の東日本大震災後、関東の多くのところでエスカレーターがあっても節電のために止められていたときに考えたことなのだが)、

バリアフリーの実現、とくに鉛直方向の移動には、エネルギー(おもに電力)を使うことが多い。バリアフリーを要求することは、エネルギー多消費社会を続けることの主張にならないか? 利用可能な再生可能エネルギーの量は、ふえつつあるものの、あまり急にはふえない。化石燃料原子力からの脱却がむずかしくなるのではないか?

化石燃料原子力からの脱却を優先するならば、(車いす利用者に限らず、人びとの)移動したいという欲求を量的に抑制する必要があるかもしれない。

また、ぜひ必要な状況では、人どうしの助け合いとして、昇降機を人力で動かすことも可能にしておくべきかもしれない。(その準備としては、動かす人がはらう労力がなるべく小さくなるようにする技術開発も重要だと思う。)