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QWERTY

現在のコンピュータ用のキーボードのアルファベットの配列は、英語用の場合で言えば、左からQWERTYと文字がならんでいる。(日本語用キーボードでは、かなが加わり、記号類の位置が英語と違うところがあるが、アルファベットに関しては英語用と同じものが使われている。) これは、英語あるいは日本語ローマ字を速く入力するために設計された配列ではない。(英語の入力にはDvorak配列がよいと言われることが多い。日本語についてはこれとは別だが母音キーをホームポジションに集める点では共通の日本語ローマ字配列が開発されたことがあった。) 19世紀末ごろにできたタイプライターのキーボード配列の事実上の標準が、いったん慣れたものを新しく覚えなおしたくないという人々の惰性によって、生き残ってしまったものと考えられる。技術史用語でいう「経路依存性」あるいはlock inの例ともいえる。

タイプライターのキー配列がQWERTYになったのは、初期のタイプライター開発者が、わざとキー操作が速くならないように考えたのだという説がある。2013年8月に出た橋本毅彦氏の文庫本の第8章のうちの節の見出しに「スピードを遅くするためのQWERTYのキー配列」とあるのはその説に立っていると言えるだろう。なお、この本は2002年に出た本の改訂版だが、この部分の記述は旧版の第7章からそのまま引き継いでいる。

ところが、その少し前、2013年5月に、わたしは(だれかのTwitterでの発言がきっかけだったと思うが) アメリカのSmithsonianのStamp氏の記事で、その説は「伝説」にすぎず歴史的事実ではないという主張を読んでいた。

Stamp氏がもっとも重要な根拠だとするのは、安岡孝一氏と安岡素子氏の研究(2011年の論文)だ。それによれば、QWERTY配列が選ばれた理由に電信を受信してタイプで文字を打つ仕事をしていた人の要望があったという。当時使われていたアメリカ式のモールス符号(のちの国際式モールス符号とは異なる)では「Z」と「SE」がまぎらわしかったので、その判別がぎりぎりになっても手の動きが追いつくように、Z、S、Eのキーが近くにあるのが好まれたというのだ。しかしこれだけでは、Z、S、E以外の部分についての「伝説」の否定にはなっていないと思う。

わたしは1970年代、アメリカから東京大学に異動してコンピュータのための日本語入力方式を研究していた山田尚勇(ひさお)教授からこの件の話を聞いた覚えがある。ネット検索してみると山田氏の1980年の論文がみつかった。これのIV(B)節によれば、Sholesが1873年にキー配列を決めた際には、jamming (キーと活字ヘッドをつなぐ棒がからみあうこと)を避けるため、よくならぶ2文字をround basketの反対側に配置した、とある。その過程で、意図したのではないが、速く入力するのが困難になった場合がある、とも言っている。文献としてCurrent (1954)が参照されている。

自分で研究したわけではなくこれだけ読んだことをもとにした推測だが、タイプライター開発の初期の段階で、棒がからまないことを入力の速さよりも優先する判断は実際あったのだろうとわたしは思う。ただし「わざと遅くした」というのは当時の人の意図ではなく後世の人の皮肉を含む表現として読むべきだと思う。それからまもなくタイプライターの機械的機構が改良されてどんなキー連鎖でも棒がからむ可能性は薄れたと思うが、配列は惰性で残ったのだろう。そこにさらに安岡氏のいう電信受信者による選択があったのだと思う。

なお、安岡孝一氏の2005年の報告には、その後にQWERTY配列が生き残るのを助けたいくつかの事情が述べられている。

  • 1893年、多くのタイプライター製造会社が合併し、そのキー配列はQWERTYに統一される。その後出てきた会社はQWERTY配列を採用する戦略をとった。
  • 1901年、Donald Murrayが印刷電信機を開発する。これを原型としたテレタイプが普及する。これは1234567890と同じキーにQWERTYUIOPが割り当てられることを前提に設計されていた。
  • 1949年、電子計算機EDSACが入出力装置としてテレタイプを利用する。

文献