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ヘクトパスカル(hPa)

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気圧の単位として、今ではヘクトパスカル(hPa)が標準的に使われる。気圧は圧力であり、圧力のSI (国際単位系)の標準の単位は、メートル・キログラム・秒のかけ算・わり算で組み立てられたパスカル(Pa)[ニュートン毎平方メートル]だ。ヘクト(hecto)はSIでも認められたメートル法の接頭語で「百」のことだ。したがってヘクトパスカルを使うことはSIの範囲内ではある。しかし、SIでは、なるべく千の整数乗(十のn乗でnが3の倍数になるもの)の接頭語を使うことが勧められている。1000 hPaというよりも、100 kPa [キロパスカル]のほうがよいのだ。実際、工学系の多くの分野では、従来の単位からSI単位に移行する際にはキロパスカルを使うことにしたそうだ。ヘクトパスカルを使うことは気象の分野の方言のようなものになっている。接頭語「ヘクト」も、これ以外で思いあたるのは、メートル法ではあるがSIではない(農地などに使われる)面積の単位ヘクタール(ha)だけだ。

SIの体系が確立する前のメートル法では、メートル・キログラム・秒のかけ算・わり算で組み立てられたものに適当な10の整数乗をかけた単位がいろいろあった。圧力についてはバール(bar)というものがあった。これは、ニュートン毎平方メートル(むしろ、センチメートル・グラム・秒から組み立てられた「ダイン毎平方センチメートル」かもしれない)を基本として、適当な10の整数乗をかけて、平地(海面と標高が大差ないところ)に住む人が体験する気圧として1の桁の値が得られるものが選ばれたのだと思う。気圧の変化を論じるにはこれの千分の1の桁が重要になるので、バールの千分の1のミリバール(mbar、気象ではmbと書かれる)が使われるようになった。「天気図」は基本的に気圧の分布図であり、その数値はmbで表示されることが長く続いてきた。ミリバールはパスカルの百倍なので、ヘクトパスカルと言いかえれば使い慣れた数値をそのまま使いながらSI標準に従うことができた。

ミリバールが普及する前の時代は、気圧の単位として水銀柱ミリメートル(mmHg)が使われていた。水銀気圧計で測定される長さそのものだ。ただし精密に言うと、その長さは温度と重力加速度によって変わるので、測定されたものを補正して標準の温度と標準の重力加速度のもとでの値にする必要がある。

海面の高さでの気圧にはもちろん変動があるが、その代表的な値として760 mmHgが採用された。換算すると1013.25 hPaとなる。この値が「1気圧 (atm)」として単位のように使われることがある。ただしこれを単位のように使う習慣は気象学者のものではなく、他の科学・工学分野のものだ。

- 2 [2020-09-05 追加] -
(わたしの用語で言いかえると) 「理工系共通語の kPa ではなく気象むらの方言の hPa が採用されたのはなぜか」という問いを見かけて、しばらく考えてみた。

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気象の観測や予報の現業の人たちにとって、mb から kPa にきりかえることには、不便にうちかつだけのメリットが感じられなかったのだ。

気象の現業の現場では過去の観測値の表や数値が書きこまれた天気図などの資料をつかう。単位をきりかえるには、日常にちがった単位で書かれた(まぎらわしい)資料を併用する不便をかかえるか、過去の資料を新しい単位でつくりなおす てまと資源をつぎこむ必要がある。気象観測データは世界のすべての国でおこなわれたものをあわせて使うから、その標準の変更は、気象現業につぎこめる資源のとぼしい国でもできるものでなければならない。

他方、気象の知識は物理法則にもとづく部分が大きいから、物理法則の式に観測にもとづく数値を入れるとき、換算定数をつかわないですむほうがよい。SI単位の基本単位を採用すれば、換算定数は不要になる。現実には、SIでも、数値の大きさをあつかいやすいものにするために、 10のべき乗の接頭語が導入されている。接頭語つきの単位をつかうときには、換算定数が必要だが、それは10のべき乗にかぎられる。

hPa でも kPa でも、10のべき乗の換算定数が必要になる点は同様なのだ。SIで、10の「3の倍数」乗、つまり千のべき乗が奨励されてはいる。しかし 10の2乗も許容されてはいる。また、kPa のほうが他の理工系分野と数値を共有するためには便利ではある。しかし、 変更前の状態で、他の理工系分野では気象データをとりこむときは mb から自分の分野の単位への換算が必要と認識されていたので、それを変えなくても他の分野にあらたな迷惑をかけることにはならないだろう。

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mmHg から mb への変更はおこなわれた。物理法則の式に観測にもとづく数値を入れるときの換算定数が10のべき乗だけになるメリットが大きかったのだと思う。水銀気圧計はまだ使われていたけれども、他の原理による気圧計も普及していて、水銀という物質を標準に使うことの必然性が感じられなくなっていたと思う。他方、mmHg で書かれた資料の蓄積がまだ膨大というほどではなかったうえに、同じ地点での mmHg 単位の観測値と mb 単位の観測値とは (上位けたを省略せずに書けば) 見わけやすいと考えられたと思う。

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kPa ではなく、SI 標準単位の Pa にきりかえるならば、物理法則にあてはめるときに換算定数がいらなくなるというメリットがある。

実際すでに、気象の(現業ではなく)研究のためのデータ交換でつかわれる netCDF というデータ形式 に入れる内容についての事実上の標準である CF規約 (CF Conventions) では、気圧の単位は Pa がつかわれている。 (なお、netCDF + CF によるならば、気圧などの物理量の数値は浮動小数点数であつかわれる。気象現業で観測値が固定小数点数であつかわれるのと、事情がいくらかちがう。)

いまのところ、わたしをふくめて気象研究者の多くは、気圧は hPa 単位の数値を見なれているので、Pa 単位のデータを受け取ると、100でわって図化している。しかし、つぎの世代の気象学者は、「中心気圧 95000 Pa の低気圧」などと言うようになるかもしれない。