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地球温暖化の見とおしが信頼されにくい事情 (その克服にむけて)

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

【この記事は、気候変化の専門家として書いています。ただし、内容は、たしかな(「確信度」の高い)知見を提供する部分と、まよいながら考えていることを暫定的に書いている部分がまざっています。】

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2019年7月、公開講座で地球温暖化について講義したときに、温暖化否定論についてどう考えるかという質問があり、それにこたえる補講をした。補講の準備として、メモ[温暖化否定論・懐疑論などについて]をつくった。ただし、それは箇条書きだった。そこでのべたことを (全部ではないが)、文章としてくみたてなおしておきたい。

ただし、日本語圏では、否定論・懐疑論よりもむしろ、「温暖化が話題になりにくい」という事情とその対策を考える必要があると思うようになった。

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「温暖化は信じられない」「あなたは温暖化を信じますか」などと言われることがあるが、温暖化が信仰の対象であるはずがない。この「信じる」は「信頼する」ということだろう。「わたしは、温暖化がおきるという見とおしを信頼している」ということならばできる。なお、IPCC用語の「確信度」を使って「温暖化がおきるという見とおしは確信度が高い」というのは、「気候に関する科学の専門家集団のうち多くの人が共通に、温暖化がおきるという見とおしを信頼している」ということである。

地球温暖化の見とおしとは、つぎのようなものだ、と、わたしは理解している。

  • (a) 人間が化石燃料を消費して、大気中の二酸化炭素がふえ、それが赤外線を吸収・射出することによって、世界平均地上気温が上がることを代表的な症状とした気候の変化がおこる 。(これを「地球温暖化」という。)
  • (b) それによって、人間社会に被害が生じる 。

ただし、これには、いろいろと、補足説明が必要だ。

  • (a)について
    • 地球温暖化の症状は世界平均地上気温が上がることだけではない。
    • 主要な問題は、今後数十年間(たとえば21世紀末までの80年間)についての将来みとおしとして、気候の変化の主要部分がこの地球温暖化になるだろうということだ。
    • 同様な変化がすでにおきているかどうかは、ここでの主要な問題ではない。
    • 数十年(たとえば30年)周期帯の自然の気候変動がかさなるので、十年程度の期間の変化をみたとき地球温暖化の特徴が見えるとはかぎらない。
    • 太陽活動が急によわまる、火山の巨大噴火がある、などの理由で温暖化がうちけされる可能性があることはある。しかしその予測はほとんど不可能であり、確率は低いと考えられる。それを例外あつかいすることによって地球温暖化の見とおしはなりたっている。
  • (b)について
    • 気候の変化には、人間社会にとって得になることもあるだろう。しかし、損をする人びとがいて、得をする人びとから損をする人びとへのうめあわせをする社会的なしくみがととのっていないならば、そのような気候変化は、人間社会にとってまずいことだといえる。
  • (a)と(b)の関係について
    • 単純に考えると、(a)は自然科学的知見だけでいえることで、(b)は社会科学的知見も必要なので、わけるべきだ。
    • しかし、(a)は、実際には、変化の大きさがある基準をこえるという見とおしにする必要があるだろうが、基準が自明でない。むしろ、(a)と(b)をまとめて、人間社会に被害が生じるような気候の変化がおこることをさして、「地球温暖化がおこる」というべきなのかもしれない。

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地球温暖化の見とおしと、その対策が必要であることは、世界では、この20年ほどのあいだに話題になることがふえてきた。2019年9月の国連「気候行動サミット」もそのあらわれだろう。そこで、日本は、いまの世界のうちでは(紛争中の国などを別とすると)異常に、地球温暖化への関心がうすいことがわかった。

2011年の東日本大震災にともなう原子力発電所の事故以来、日本の人びとの関心が、原子力の是非に集中してしまい、地球温暖化が話題にのぼることがすくなくなった、というのがおもな事情だろうか。(環境に関心があって、温暖化も放射能汚染もさけたいと思う人たちが、地球温暖化の問題をとりあげると、原子力利用推進に利用されるおそれがあるので、だまってしまった、ということはありそうだ。)

(歴史的事実に反する仮定として、もし津波災害はあったが原子力事故がなかったら、津波と高潮は原因はちがうが災害の症状はにており、地球温暖化によって高潮災害がふえると予想されるので、地球温暖化への関心は高まっていただろうと思う。)

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人びとは、おこってほしくないことは、おこらないと思いこんでしまいたがる、心理的傾向がある。心理学用語としての「否認」だ。地球温暖化は、この意味での否認がおこりやすい材料ではあるだろう。

現代の文明生活は、電力やガソリンなどの、エネルギー資源にたよっており、そのエネルギー資源の大部分は、石炭・石油・天然ガスなどの化石燃料でまかなわれている。

地球温暖化をちいさくくいとめるには (気候政策の専門用語でいう「緩和策」としては) 化石燃料の利用をへらす必要がある。

単純に産業革命まえにもどるわけではない。太陽光、風力、水力などの再生可能エネルギーは使える。しかし、化石燃料は、空間的・時間的に集中したエネルギーを提供できるが、再生可能エネルギーはそれがむずかしい。工業先進国では、利用可能なエネルギー資源がへることを覚悟して、エネルギー資源の需要をへらすとともに、再生可能エネルギーの特徴に適応しないといけない。

(原子力も、集中したエネルギーを得ることができるしくみだ。しかし、放射性廃物がかならず生じるし、事故でまきちらされるおそれもある。いますぐ原子力利用をやめるべきだという主張をしない人でも、21世紀中に世界人類が原子力に大きくたよることはむずかしいと思うようになっただろう。)

(化石燃料をつかっても、二酸化炭素を大気に排出せず、地下にとじこめればよいという考えもある。しかし、二酸化炭素は、原子力の放射性廃物にくらべれば、物質自体の危険性はちいさいが、量が膨大なので、とじこめる場所を確保することは簡単でない。)

二酸化炭素排出削減のためには、生活様式や産業構造の転換をせまられる。たとえば、これまで当然のように思ってきた自動車や飛行機の利用をあきらめなければならないかもしれない。そして、自動車や飛行機が利用されることを前提としてきた産業がつぶれ、そこで働いてきた人がほかの職をさがさなくてはならなくなるかもしれない。

生活様式を変える必要がないと思いたいので、地球温暖化はおこらないと思いこみたい、という心理はあると思う。

それを変えるにはどうしたらよいのか?

地球温暖化が進むことによって、海面上昇で水没して住めなくなってしまうところや、土壌が乾燥して作物がとれなくなってしまうところなど、生活様式を変えることを強くせまられる人が生じることを示して、それにくらべれば排出削減策のほうが生活様式のささやかな変化ですむのだ、と言おうと思う。

しかし、将来の他人におこることをすぐ自分におこることよりも重視することはなかなかむずかしいと思う。

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いまの日本では、無関心のほうがおもで、温暖化はおこらないと主張する議論(温暖化否定論)を聞くことはすくない。

しかし、アメリカ合衆国、カナダ、オーストラリアなどでは、温暖化否定論が、マスメディアで広くつたえられることもある。その論客自身は、自分が正しいと思う主張をのべているだけかもしれないが、それがひろまっているのには、意図的宣伝のせいもある。

温暖化否定論の宣伝におかねを出す人びととしては、まず、化石燃料の利害関係者がいる。炭鉱会社とか、石油採掘関連の技術を売る会社などだ。それから、企業活動の自由を最重要視し、政府による企業活動への規制や課税強化に反対する人びとがいる。

日本語圏には、そのような温暖化否定論の組織的宣伝はみられない。逆に、原子力の利害関係者による、温暖化は深刻な問題だという宣伝がみられたことがある。

日本で温暖化否定論をとなえる人は、各人それぞれ信念にもとづいて発言しているようだ。その政治的背景もまちまちで、どちらかというと、反体制、反資本主義的な思想をもった人が多いようだ。そのうちには、温暖化の見とおしは、原子力を推進する体制のいうことだから、ウソだろう、と思った人も多いようだ。(そういう人たちがしばしば、アメリカなどの大資本・富裕層が宣伝した温暖化否定論を、おそらくそうと知らずに、受け売りしているのは、皮肉なことだと思う。)

これまで、「否定論」よりも「懐疑論」ということばがよく使われてきた。「温暖化はおこらない」ではなくて「温暖化の見とおしはうたがわしい」という主張ならば、「懐疑論」のほうがふさわしいだろう。

しかし、温暖化懐疑論といわれる議論には、温暖化の見とおしには懐疑的だが、それに否定的な説には懐疑を向けないものが多い。そういうものは、温暖化否定論と類似のものとみてよいだろうと思う。

温暖化否定論を持論にしてしまった人に考えをかえてもらうことはむずかしいだろう。第三者に対して、温暖化否定論は科学的知見としての確信度が低いことをわかってもらう努力をするべきなのだろう。

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専門家は温暖化の見とおしの「確信度が高い」としている。しかし、専門外の人は、否定論や懐疑論までいかなくても、なぜ確信度が高いといえるのか、納得できないことが多いと思う。その背景には、温暖化の見とおしという知見の特殊な性格がある。専門家としては、その性格を理解してもらう努力をつづけないといけないのだろう。

- 6a -
温暖化の見とおしは、大気中の二酸化炭素の量の増加を原因として、物理法則にもとづいてみちびかれた結果である。そして、それは、すでに温暖化がおきていてそれが検出されたかどうかには、直接には依存していない。(検出されれば、補足的なうらづけにはなるが。)

科学者のうち、野外調査重視の地質学者などのうちには、科学は「事実を発見し、その原因をさぐる」というものだと考えている人がいるだろう。そういう人に、温暖化の見とおしの論理的構造を理解してもらうのは、むずかしい。

いまでは、「世界平均地表温度が上がった」「その原因は二酸化炭素だ」という理屈をうらづける知見もあり、IPCC報告書の政策決定者向け要約などでは上記の(1)よりも重視されている。しかし、この「検出と原因特定」の理屈には、つぎのような短所もある。

  • 原因特定の知見を得るまでの論理構成が複雑なので(典型的にはシミュレーションどうしを比較しさらに観測と比較)、不確かさが大きい。また、シミュレーションをまったく信頼しない人にとっては意味をもたない。
  • 観測された温度の上昇が停滞すると信頼がうすれる。
  • これまで経験したものよりも大きな温度上昇が将来に見こまれていることにつながらない。

- 6b -
温暖化の見とおしは定量的に大きな不確かさをふくむ。

  • 気候システムについての不確かさ
    • 雲によるフィードバック
    • 非線形性からくる予測困難性 (カオス性)
  • 生物地球化学サイクル (炭素循環など) についての不確かさ
  • 人間社会 (将来の排出量など) についての不確かさ

科学者のうち、物理学者などのうちには、科学の対象として条件を精密にコントロールできる実験室内の現象を想定していて、科学的知見が得られたというためには理論と実験とが精密に(有効数字なんけたも)対応しなければならないと考えている人がいるだろう。そういう人に、不確かさの大きい地球科学の知見も科学的知見として有効であることを理解してもらうのは、むずかしい。

たとえば、人間社会について「排出削減政策をとらない」と仮定して、そのばあいに現実になりそうな排出量シナリオを前提にすると、2100年の世界平均気温は、1850年を基準として、+2℃~+5℃の範囲になる、という幅をもたせた認識には、確信度が高いとする。そして、たとえ+2℃ですんでも、人間社会に有害な影響があることが予測されるとする。排出削減政策をとるべきだという根拠としては、それでじゅうぶんだと思う。 (そこで、温度予測の誤差を±0.5 ℃以内におさめろと言われたら、確信度の低い見とおししかのべられなくなる。) このようなやや具体的な例をあげて、問題の構造をわかってもらう努力をするべきなのだろう。

(ついでながら、物理の問題として考えるのならば、「+2℃と+5℃とでは2倍以上ちがう」というよりも、(つぎの数値は単なる例だが)「290K から 292K になるか 295K になるかの 3けための議論をしている」というほうが適切だろうと思う。)

- 6c -
気候の予測型シミュレーションは、 (部品として経験式をつかうことはあるが) 物理法則にもとづくモデルによっている。科学者のうち、そのようなモデルをもたず、予測といえば経験式による予測であるような専門分野の人、たとえば経済学者などのうちには、過去に経験した(温度などの)範囲をはずれると、モデルの予測能力はないはずだ、と考える人がいるだろう。

気候の科学が、どのように物理法則にもとづいているのかを、わかってもらう努力をするべきなのだろう。

ただし、排出量を変化させるしくみもふくめた議論をするとすれば、気候と経済とを結合させたシステムのモデルをつくる必要があり、その気候の部分は物理法則によることができたとしても、経済の部分は経験式によることになるだろう。そのようなモデルによる知見の性格は、気候のシミュレーションのばあいとはちがってくるだろう。

- 7 [2019-10-20 追加] -
人が地球温暖化の見とおしへの否定論にかたむきやすい理由としては、(世界全体の)人間が、地球の気候を変えるほどの能力をもちうることが信じがたい、ということがある。

気候が変化しうることは、いわゆる氷河時代の証拠などをあげられれば、否定はしにくいと思う。

しかし、気候を変化させうる要因としては、地球内部のはたらき(たとえば多数の火山の噴火)や、太陽や、もっと大きな宇宙(たとえば天の川銀河のスパイラル構造)のはたらきもありうる。

  • 地球内部、太陽、宇宙にくらべてずっとちっぽけな人間には、たいしたことはできないはずだ。
  • もし人間に気候を変える能力があるのならば、人間は気候をのぞましいほうに変えられるはずで、害をもたらすような気候変化はさけられるはずだ。
  • それができないのならば、やはり人間は気候を変える原因としては重要ではないだろう。

というような理屈を読んだようなおぼろげな記憶があるのだが、文献参照ができる形でおぼえていない。

(電気機器をよくこわすがめったに修理できない) わたしから見れば、変化の原因になるけれども、思いどおりに変えることはできない、という状況は、ありうることであり、現状はたぶんそうなのだろうと納得できる。しかし、このような状況がありうることを想像できなくて、地球温暖化の見とおしに納得できない人もいるのかもしれない。

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(まとまらないが、ひとまずここまで。)