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天皇の制度はゆるやかに消滅させるのがよいのだろう

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

【この記事は、日本に住む人であり、日本の政治に対する有権者のひとりである個人としての意見をのべるものです。ただし、随想であり、読者に行動をよびかけるものになってはいません。】

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2019年10月22日は、天皇即位行事のために、祝日ということになった。大学関係者にとって、授業日数を確保せよという圧力と、祝日には休業せよという圧力を同時にかけられるのは、迷惑千万なことだ (この不満はもちろん天皇にではなく行事日程をきめる責任者である総理大臣にむけられている)。しかし、わたしにとって、天皇の制度について、日ごろから考えていることを書きだしてみる機会にはなった。

このブログに、これまで、[2012-10-05 皇族に基本的人権を。あるいは空位の時代へ。][2016-05-06 わたしの改憲論][2016-08-08 天皇ビデオメッセージをきっかけに考えたこと][2016-12-23 天皇の制度について、2016年12月の時点で考えること]の記事を書いてきた。発想はずっとつながっているが、論としてはかならずしもつながっておらず、いっしょにすると矛盾する部分もある。この記事はまえのものとは独立な論として見ていただいたうえで、参考としてまえのものも見てくださるとよいと思う。

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元号がきまった4月ごろから、代がわりが実現した5月ごろには、メディアに天皇に関する話題が多かったのだが、7月ごろからは、それほど聞かれなくなったと感じている。参議院選挙で、新興野党がその名まえに「れいわ」をふくめたことで、現政権に近い人たちが新元号を宣伝材料に使いにくくなったという事情もあるのかもしれない。新天皇・皇后の「公務」に関する簡単な報道はあったが、その態度についての論評は(わたしのところまでは)きこえてこなかった。(歴史学の修士である現天皇が「むかしの天皇は牛車にのらなかった」という学会報告をしたという話題だけが、ちょっと異色だった。)

ここに書くのは、わたしがおもに4-5月ごろに考えたことで、その後の変化はすくない。

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わたしは、天皇制を廃止するべきだという意見をもっている。それは、日本国憲法の条文ではなくその精神とされる「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」を自分の信条ともしているたちばからだ。いまの日本国憲法は、1940年代後半という時代の状況への適応として、明治憲法の改正として正統性をもたせたかったから天皇をのこしたが、天皇の特権が復活するのをふせぐために天皇に国民としての参政権さえあたえなかったのだと思う。憲法の背景となる理念にしたがえば、生まれによる差別をふくむ制度はあってはいけない。すじとしては、憲法を改正して、天皇にかんする規定をふくまないものにするべきだと思っている。

しかし、いま「憲法改正」といえば、自民党の憲法改正論をいきおいづけてしまうだろう。自民党は憲法改正を党是としているらしいが、どんな改正をしたいのかについて、(党内で案はつくられたもののそれを国会に持ちだすようすもないので) かならずしも実質的合意はないように見える。(もしかすると、手続きが「GHQによるおしつけ」でないことが重要で、改正内容は重要でないのかもしれない。) 批判者の論から自民党がわの論点を推測すると、軍をもつことを公認すること、緊急事態条項、そして、家族の助け合いを国民の義務とするべきだというような主張があるようだ。家族の件は、明治憲法体制に復古しようとする勢力と、社会保障を縮小しようとする「小さい政府」論の勢力との利害連合なのだろう。天皇については、「元首」などの名称はともかく、実質権力を復活させようという主張は出ていないようにみえる。 (ちかごろの天皇は職務上当然ながら日本国憲法を尊重したふるまいをするから、明治憲法体制に復古しようとする勢力はそのような天皇に実質権力をあたえたくならないだろう。)

この状況で、天皇制を廃止するための憲法改正提案をしても、実現性がとぼしいのはもちろん、主張の意味を理解してもらうのもむずかしいだろう。

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ともかく、わたしは、2016年に、(国民主権の理念にもとづいて根本的に書きなおすのではなく) いまの日本国憲法から最小限の改正で世襲の天皇制をなくすことを、法律のしろうとなりに考えてみた。「天皇」と「摂政」と「皇室典範」の名称を変え、天皇は世襲であるという条項をなくすだけで、実質的にドイツ型の大統領制に近いものにできると思った。

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その考えをもう少しつづけたとき、つぎのことに気づいた。天皇がいなくても、天皇の国事行為を代行する「摂政」がいれば、日本の政治手つづきはまわるのだ。日本国憲法の条文を改正しなくても、「皇室典範」という法律を改正することは国会でできるから、それを次の摂政を決められるように改正すれば、この憲法のまま、空位をずっとつづけてもかまわない。(「摂政」に適任の人を皇族のほかからもえらぼうとすると「皇室典範」という名まえは適切ではないが、それこそ「自衛隊は軍隊ではない」と同様に、緊張状態ながらもつづけていけると思う。)

これはわたしのしろうと考えで、まったく自信がなかったのだが、今年の代がわりのとき、ネット上で、弁護士と法学の教授がそれぞれ、いまの憲法のままで空位が可能なことをのべていた。多数意見かどうかはわからないが、法律家からみてもありうる説なのだ。

国会が開かれていないときに天皇がいなくなり、摂政もきめられていなかったら、国会を召集できるのか、という疑問もある。わたしは、日本国憲法の理念からみて、国会が、天皇に召集されずに自主的に集まっても、有効だと思う。しかし、それをみとめない人もいるかもしれない。(さきほど話題にした法律家のひとりは、いまの皇室典範にしたがって皇室会議を開いて摂政をきめるのがすじだと言っていた。天皇になりうる男子皇族がいなくなったとしても、女子皇族がいれば、皇室会議のメンバーになりうるし、摂政にもなりうる。そして摂政が代行者として国会を召集することができる。このあたりは、わたしはかならずしも納得したわけではなく、聞いた話としてふれておく。)

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代がわりのとき、マスメディアによく出てきた話題は、天皇の後継者になりうる人が少なくなったので、天皇制の将来があやうい、ということだった。そこで、天皇制を終わりにすればよい、という意見は、マスメディアでは(わたしは)見かけなかった (ネットメディアでは見かけた)。天皇の位が継承されるべきだということを前提として、その対策として、女性天皇をみとめるべきか、旧宮家の人を皇族に「復帰」させるべきかという、価値観のちがいによる対立が見られた。

しかし、女性天皇は女系継承をみとめないと長期対策にならない。女系継承をみとめても、後継者難は続くかもしれない。いまの日本の天皇と皇族には、一方で、日本国憲法成立時につけられた条件によって、国民としての権利がない(天皇以外の皇族については憲法ではなく運用の問題だが)。国事行為の労働者のたちばからの要望さえ政治的発言とみなされてなかなかできなかった。他方で、明治期にふくれあがった皇室祭祀と、戦後にふくらんだ「公務」を廃止しなかったので、法的根拠のない皇族義務が多い (今後は現天皇の態度によって整理されるかもしれないが)。権限がなくて自由がない天皇や皇族になりたい人がいないのは、当然なことなのだ。

皇族からぬけたい人がぬけるのにまかせて、空位にいたるのが、よい政策だと思う。しかし、皇室の制度がつづくかぎりは、それを男女平等にちかづけることも、有意義だと思う。両者が対立したとき、どちらを主張するべきか、判断にまよう。