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淘汰論・強者主義・優生思想

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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ある人(D氏とする)の発言が、「優生思想」とみなされて批判や非難を受けていた。

わたしは、その発言に対する冷静な批判には賛同することが多かったが、感情的な非難は(その根拠となった正義感覚は正しいとしても)まずいと思うことが多かった。

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まず、「優生思想」ということばを拡大して使うべきではなく、発言の論旨に合った表現を使って批評するべきだと思った。

D氏の発言は、生物に関するDarwin進化論に由来する「自然淘汰」ということばを含んでいた。

ここから、D氏の考えを深く追わず、わたしなりに「自然淘汰」を中心とする社会思想を組み立ててみる。「人間社会でも、淘汰が働いて当然だ。」つまり「社会によく適応した人が生き残って、よく適応できていない人は滅びるのが当然だ。」という思想がありうると思う。これはD氏が言ったとおりではない。おそらくD氏は「適応」ということばを使ってはいないだろう。

強者が生き残って弱者が滅びるのが当然だ」のほうが通じやすいかもしれない。「強/弱」はどういう意味なのかという疑問が残るのだが、だいたい「競争に勝つ/負ける」と同じととらえたうえで、仮に「強者主義」と呼ぶことにする。わたしは、これは、上に「適応」ということばを使って述べた思想と、だいたい同じだと思う。そして、わたしが理解したかぎりでは、D氏の主張は、この「強者主義」そのものかはわからないがその同類だと思う。

ただし、仮に「当然だ」としたところは、社会の現実に関する事実認識か、社会はどう運営されるべきかという意志の主張か。どちらの議論もありうるが、両者はだいぶちがう。(前者ならば社会についてであっても「自然に起こる」淘汰の話になるだろうが、後者ならば「人為的な」(意図的な)淘汰、むしろ選抜の話になるだろう。)

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現代(20世紀後半以後)の民主主義的または社会主義的規範をもつ国家では、少なくとも公共的なことがら(教育、医療など)に関するたてまえとしては、意志としての強者主義は否定され、「弱者にも強者と同等に生きる権利があり、国家はそれを保障すべきだ」とされていると思う。しかし、国家による保障能力には限りがあるし、現実の政治には強者主義をもつ人びとの影響も強いから、強者主義の否定は徹底しているわけではない。

わたしは、優生思想は強者主義のうちの特殊なものだと思う。強者主義を否定すれば、優生思想も否定されるだろう。しかし逆に、優生思想を否定しても、必ずしも強者主義は否定されないだろう。

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優生思想が強者主義のうちで特殊なのは、遺伝する形質を対象とすることだ。

意志としての優生思想をわたしなりに整理してみると、「強い個体を生じる確率の高い遺伝子をもつ人びとが子孫を残すべきであり、弱い個体を生じる確率の高い遺伝子をもつ人びとは子孫を残すべきでない」となると思う。(「強い/弱い」ということばを、ひきつづき、しっかり定義しないまま使ってしまっている。)

これは、今ではほとんどの国で、政治理念としては否定されていると思う。

ただし、19世紀末から20世紀前半には、(ナチス ドイツが極端な例として記憶されてはいるが) 「進歩的」とされる人びとを含めて、さまざまな政治傾向の人びとに広がっていた。その時代の科学的知見の発達の歴史を述べながら、優生思想をもっていた学者の(それ以外の面での)貢献を無視することは不可能なほどである。おそらく社会思想家についてもそうであり、優生思想と今でも有効な思想とをよりわけて受けとめなければならないのだと思う。

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ネット上で(わたしはおもにTwitterを見ているのでそれゆえの偏りがあるかもしれないが)、D氏の主張を、優生思想と、さらにナチズムと同一視し、邪悪なものとして扱うような論調の発言がたくさんあった。

それに対して、D氏に賛同するわけではないと前おきしながら、そのような論調は行きすぎであり、逆効果になるかもしれない、という批判もあった。わたしはそちらがもっともだと思った。ここから、わたしなりの表現で論じる。

ひとつには、内容として、D氏の発言は、わたしのいう「強者主義」ではあっても、遺伝形質を問題にしているようではなく、「優生思想」という形容はまずい、ということがある。(さらに、優生思想とナチズムとの関係も、例示とするのはよいが、同一視するのはまずい。)

もうひとつには、D氏をはじめから敵とみなした態度で論評することは、D氏ばかりでなくD氏に同調する人びとに、「優生思想」への批判に対する敵意をもたせてしまい、もしかするとかえって「優生思想」の信奉者たちに接近させてしまうおそれがある。D氏の過去の発言を批判しながらも、現在のD氏(やその同調者)に対しては、直接説得を試みるにせよ第三者として論評するにせよ、考えを変えうる人として扱うべきだろう。

それと並列に、(D氏の発言がまずいという価値判断を動機として)、D氏のような発言をする人がどのようにして出現したのかを事実問題として検討し、社会のなかでその傾向が強まらないようにするにはどうするかを政策課題として考えるべきかもしれない。(社会科学的課題であり、わたしの能力はおよばないが。)