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「特区」で獣医学部新設を認めるか? という政策課題について思うこと (2)

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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時事的な問題に関する、[2017-06-18の記事](以下「第1部」と呼ぶことがある)の続き。わたしはこの事件の情報を詳しく追っていないことをおことわりしておく。

わたしの(限られた知識にもとづく)理解では、これまでの手続きは、国家戦略特区に関する行政手続きとしては正当に進んでおり、当面は、手続きは有効として進めるべきなのだろうと思う。(今後、さかのぼって手続きが不当であったと認定される可能性はあると思うが、確実ではないし、確定するまでには年単位の時間がかかるだろう。)

しかし、「あとは形式的審査だけで、来年4月開校は事実上確定している」という扱いにするべきではないと思う。

大学設置の認可は、ここ数十年間のふつうの行政では、国(文部科学省)が事実上の事前審査や行政指導をするので、正式の設置申請をしたときには事実上内定しているような状況にある。(設置申請のときに、すでに校舎の建設が進んでいたり、教員予定者の雇用が内定していることを要求しているそうだが、それで認可しなかったら国が信用をなくすだろう。)

この状況自体が、行政改革規制緩和の立場からの批判の対象になりうる。【わたしは、規制緩和論にいつも賛成するわけではないが、この件では、現状の事前審査はあしき規制の一種だと思う。設置審議会で実質審査をし、その結果として設置計画が変わることもあるし不許可になることもある、という、明朗な形にするべきだと思う。ただし、決断だけで変えられるものではなく、つじつまのあった制度設計が必要だ。】

けれども、今回の争点は、とくに獣医学コースについて、申請の意向があっても事前審査にも至らずに門前払いにされていたという規制だった。それを、特区という制度を使い、内閣府文部科学省よりも上位の権限をもつことによって、突破した。それまでに、特区の条件に合っているかの審査はされているだろう。しかし、文部科学省による事前審査はとばされているから、大学としてきちんと教育をおこなえる条件がととのっているかの審査はじゅうぶんできていないだろう。

岡山理科大学獣医学部の件は、これから大学設置審議会で審査される予定なのだろう。わたしは、その審議会では、このところふつうの大学設置審議会のように形式的な審査ではなく、実質的審査をし、その結果しだいで、(予定どおり認可される可能性もありうるが) 不認可もありうるし、延期も、定員などの変更もありうる、ということにするべきだと思う。(教職員予定者や入学希望者が不安定な立場におかれることになることは、やむをえないと思う。)

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第1部の「5X」節でも述べたように、獣医学コースの全国総定員を獣医という職種の求人需要に見合ったものにおさえるという規制を続けるかどうかが、政策のわかれ道で、どちらがよいといちがいにいえない。

もし規制をやめて、コース設立認可の際に総定員を気にしないことにすれば、獣医学コースを卒業しても獣医の国家資格をとれない人や、国家資格をとってもそれを生かせる職につけない人が、おおぜい出てくることになるだろう。さらに、コースが学生を集めることができなくなって衰退し廃止に至るところも出てくるだろう。実際、法務大学院はそのような経過をたどったが、それは望ましい政策だろうか。

また、法務大学院と獣医学コースとの事情のちがいもあると思う。法務大学院は固有の設備をあまり必要としない。図書も、法曹養成専用のものよりも、一般の法学部などでも使うものが多いだろう。設置や廃止が頻繁にあっても、雇用される教員そのほかの当事者にとっては大問題だろうが、社会にとって大きな損失が起きることはなさそうだ。しかし、獣医学コースは、多数の動物を飼わなければならず、病原体なども扱う必要があるだろうから、特殊な(獣医学コース以外の目的への転用がむずかしい)設備を必要とするだろう。むやみに設置・廃止をくりかえすことは、社会にとっての損失になると思う。

そして、獣医養成教育には、ひとりあたりで、ふつうの大学教育よりも大きな費用がかかるだろう。私立大学では、それを学生(おそらくその親)に負担させることを考えているかもしれない。今はそれができているとしても、もし入学総定員を大幅にふやすならば、卒業しても学費のもとをとれるような職につけない可能性が高まるから、学生の確保はむずかしくなってくると思う。他方、獣医学の研究には、うまくやれば研究成果を売って大学が収入を得られるものもあるかもしれない。しかし、そのような研究をする大学が獣医養成教育コースをもつ必要はなく、むしろそういう義務を負わない大学のほうがうまくやれると思う。結局、獣医養成教育の費用は、私立であっても、大学を支援するか学生を支援するかはいずれにせよ、国や地方自治体などの公共部門からの支出なしには成り立たないだろうと思う。

総定員規制は、すでに獣医である人びとの既得権益によるものだという批評を聞く。しかし、獣医の職能集団の影響力がそれほど大きいとはわたしは思わない。むしろ、獣医養成教育に関する主要な利害関係者は国であって、総定員をふやすと国の支出をふやさなければいけないから、総定員を実際の獣医の需要に合ったレベルにとどめる規制をしてきたのだと思う。

もし規制緩和論を選び、獣医学コースの設置を奨励するのならば、社会全体として、獣医学コースの卒業生の就職(必ずしも獣医に限らなくてよい)がふえていくことを、絶対的保証はできないだろうが、かなり確実にしていかなくてはいけないと思う。それが困難ならば、総定員規制のほうがもっともな政策だと思う。

総定員規制は必ずしも設置拒否ではない。内わけを変えていくことはありうるし、わたしはやるべきだと思う。第1部でも述べたように、全国センターをつくり、国立・公立・私立を問わず、全国センターと協力する形で教育を進めるべきだと思う。全国センターは、国立大学あるいは大学共同利用機関に置くのが適当だろう。獣医学コースをもつ国立大学は、獣医学コースの教員・設備を全国センターに奪われることを覚悟していただきたい。そうしないとその大学の獣医学教育もよくならない。【[2017-07-23補足] 国立大学が1大学ごとに別々に法人化されてしまったのは過去の行政の失敗だと思う。それを取り消すわけにはいかないが、全国の国立大学を一体としてとらえて、各専門の学術を強化する方向で、複数の大学にまたがった再編成ができるようにすることこそ、いま必要な文部行政の改革だと思う。】

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規制緩和に関連して発達した特区という制度は、地域限定で規制緩和を試みて、うまくいけば全国に同様な規制緩和をひろげることをねらっている。ただし、試行錯誤的なところもあるので、うまくいかなかったと判断されれば、限定された地域だけの政策で終わることもあり、それは必ずしも特区政策の失敗ではない。

獣医学コースの場合はどうだろうか。もし、今治に獣医学コースをつくることがきっかけで、全国に多数の獣医学コースがつくられる状況をねらっているとすれば、規制緩和論の本道にのっているといえる。ただし、これは、2節で述べたように、獣医学コースが頻繁に設立されたり廃止されたりし、卒業生の就職の見通しも乱高下しうる、という事態を望ましいとみなしていることにあたると思う。

現実には、教員適任者が限られているので (また、教育コースの総定員がふえれば学生の就職見通しがきびしくなるので)、獣医学コースがひとつふえることは、むしろ他の大学が獣医学コースをつくろうとする意欲をそぐようだ。このような状況は、特区制度を適用するべきではなかった状況だと思う。(ただし、わたしは、すでになされた特区に関する行政判断が無効だと主張するつもりはない。)

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限られた情報にもとづく心証にすぎないが、この件で、権力をもつ政治家が、親しい人の企画が実現に向かうように、政治倫理的な意味でまずい行動をとった可能性はかなり高いと、わたしは思っている。しかし、そういう事実が認められたとしても、汚職だったといえるかは、むずかしいところだと思う。

汚職とよばれるのは、ふつう、政治家がその職務権限に関する政策の利害関係者から便宜供与を受けること(収賄やそのなかま)と、政治家が公金を私的目的に流用すること(横領やそのなかま)だ。そのような行動が実際にあったのならば、違法でもあるし、(金額などの規模にもよるとは思うが)その政治家の「政治生命が絶たれる」こともあるような事態だと思う。

他方、政治家が、支持者が望む政策を実行し、その見返りに政治家としての地位を確立したり名声を得たりすることは、政治家として当然の活動だ。支持者のうち特定少数の人の希望にそう政策を実行することは、民主主義国の政治家として望ましいことではないが、違法行為としてとがめるのはむずかしいと思う。支持者ではあるが特定少数に含まれなかった人たちが「その政策を続けるならば支持をやめる」という態度をとることによって、政治家の態度が変わるなり、退任や政権交代が起きるなりして、政策が変わっていくという、(法的でなく)政治的過程に期待する(しかないような気がする)。