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「敵・みかた」型の言説について思うこと

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

個人的覚え書き。ただし、読者もわたしと似た発想ができるようになってくださるとありがたいと思っている。

2016年7月に書きかけたのだが発表していなかった。もう少し考えを進めたかったのだ。1年たって、考えはあまり進んでいないが、形をととのえて出してしまうことにする。この記事の主要な議論は1--3節で、あとはそれと連想でつながった雑多な考えだ。

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世の中にあるさまざまな主張を、敵・みかた[注]の2つの大きな箱でまとめてしまい、それぞれの箱の中は均質であるかのようにみなす言説が、とても多いと思う。

  • [注] この語は「味方」と書かれることが多いが、わたしはこの「じゅうばこ読み」に納得していない。「一味」の「味」なのかもしれないが、この意味の「味」(み)は独立した語として現代日本語にないと思うのだ。「身方」ならば納得できるのでわたしはときどき使うが、読者に見慣れない文字列になってしまう。ひらがなで「みかた」と書いたほうがよいと思っている。なお、「見かた」(「見方」)は、同音だが別の語だと思う。「三方」(みかた)は固有名詞としてはあるが、現代日本語の普通名詞としてはないと言ってよいと思う。

広い意味での同類として、自分を中央において、たとえば「右」「左」の2つの自分を含まない箱と、「中央」の自分を含む箱があるという3分割のとらえかたもあると思う。2分割よりはやや認識が深まっていると思うが、同様な問題が感じられることもある。

- 2 -
この状況は、人が空の星(恒星)を認識するとき、方向はわかるが距離はわからない、という状況と似たところがあると思う。

近代科学によって、星(恒星)は、実際は3次元空間に分布していることがわかった。(話題を4次元時空間にひろげることは、ここでは見送る。) しかし人の視覚では星までの距離を認識できない。近代科学技術によっても、比較的近い恒星までの距離は、年周視差によって測定できるけれども、あとは、変光星の特徴や、見かけの運動が主として宇宙の膨張によるという認識からの、推測によっている。

直観的にわかるのは、(見かけの)2次元の天球上の位置、あるいは見る人から星への方向(数量としては2つの角度で表現される)だけなのだ。星座はその2次元的分布を認識したものだ。距離が10倍遠くて、光のエネルギー量が100倍の星が、同様な明るさをもつ星として見える。

2つの角度に、距離を合わせれば、3次元の球座標になる。ここ(太陽系)から観測して、そのデータを整理するうえでは、ここを特別な場所として扱った、この球座標がよいこともある。

しかし、宇宙にとっては、ここは特別な場所ではない。むしろ、一定の格子間隔の3次元直交直線座標で考えたほうがよいだろうと思われる。(一般相対論に関連する空間のひずみも考える必要がある、という話は見送る。)

- 3 -
星の話を比喩的に使って、人の言動を分類することを考える。

人の言動はなん次元空間を構成するかわからない。ともかく、人が認識できるのは実際の言動の空間よりも次元の低い空間ではないか?

単純に1つの軸で考える。仮に右・左[注]としよう。

  • [注] ここでは右・左の意味は決めないことにする。政治の話題では、右・左を保守・革新とすることが多い。ただし、革命が起きて反体制運動だった人々が権力をにぎったり、反体制運動の内部で争いが起きたりすると、だれが保守でだれが革新かはいちがいに決められない。だれのいつの判断基準による保守・革新と指定しなければならないだろう。

人は、自分よりちょっと右と、ずーっと右を、いっしょに「右」という箱に入れてしまうことがありがちだと思う。左も同様だ。

東・西に変えて考えてみよう。ずっと東京付近にいる人から見ると、名古屋も福岡も「西のほう」とまとめたくなるかもしれない。しかし、名古屋の人も、福岡の人も、たぶん、そのようなまとめかたに納得しないだろう。福岡の人から見れば、東京と名古屋をまとめるほうが、名古屋と福岡をまとめるよりも適切なことが多いだろう。(もちろん、主題によって、地域間の類似性は違ってくるのだが。)

同じ方向のものの距離の違いは、直感的認識では抜け落ちることがある。「距離が違うのではないか」という可能性を視野にいれて、追加情報を集め、じっくり考えるのがよいと思う。

- 4 -
政治家などの態度を、似た方向の極端な事例 (たとえばヒトラー、スターリン)と同一視する議論がある。「似ている」「このまま進むと同じようになってしまうおそれがある」というのはよい。しかし、同一視する議論をずっと解除しないまま続けるのはまずいと思う。

極端な表現を、人文学の素養のある(らしい)論者が意図的に使っていることがあると思う。たとえば、「日本はすでにファシズム国家になった」のような表現を見かける。政治学者がすなおにファシズム国家を定義すれば、日本はそれにあてはまりそうもない。しかし、論者が自分が使う「ファシズム国家」の定義を明示したうえで、日本の現状がそれにあてはまると論じるならば、それはすじのとおった議論だ。しかし、短い警句として述べられるときは、論者も本気で日本がファシズム国家になったと思っているのではなく、自分の位置からそれと同じ方向に見えていることを、その方向にある極端なものと同一視した表現で示しているのではないか、と、わたしには感じられる。レトリックとしてわざとやっているのならば、それもよいだろう。しかし自分のことばにつられて本気で同一視するようになると危険だと思う。

- 5 -
選挙や国民投票では、各人が、さまざまな思想を、有限個の選択肢に投影することになる。同じ選択肢を選んだ人たちどうしが、「陣営」のような感覚をもつのも、ある程度は自然なことだと思う。しかし、別々の問題軸で、一方では対立している人と、他方では協力することも、あってよいとはずだ。ひとつの境界線(面)で敵・みかたを分けてしまい、それを固定して考えるのは、危険だと思う。

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各個人は、団体(会社も含む)に所属したり、団体から仕事を請け負うなどいろいろな利害関係をもつ。個人の利害と団体の利害とは、ある程度の共通性をもつ、とは言えるだろう。しかし、それを同一視してしまうのは適切とは限らない。比喩としては、方向のちがいで考えるのがよいかもしれない。90度以内ではあるが、0度とは限らないのだ。

(a) 会社の取締役、法人の理事
給料をもらっているのならば明らかに利害関係がある。ただし、給料分だけ働いているだけで思想には賛同していないかもしれない。無給ならば、個人の時間を法人に提供するという、給料とは逆向きの利害関係があるといえる (おそらくその個人は法人の趣旨に賛同したからそういう行動をとったのだろうと推測できそうだ)。

しかし、とくに、社外取締役や非常勤理事の場合、その法人にない観点を経営に提供することが期待されており、その法人の人としての顔と別に主要な顔を持っていることが多い。(その法人を監督する立場の別の集団から送りこまれた人であることもある。) その法人に賛同する面もあるだろうが、その法人の人とみなすのは適当でないこともあるだろう。

(b) 議員連盟のメンバー
議員連盟のうちには、主題を決めて、対立する意見を含めて議論するものもあるらしい。
しかし多くは、社会運動的な、あるいは業界利害を反映した、ある主張に賛同する人の集まりだ。その場合、運動の中心となる人は、運動体の主張に鋭く賛同しているだろう。メンバーのうちには、運動に積極的ではなく、情報を取り続ける手段としてメンバーになっている人もいるだろう。団体の主張を中から変えようと思っている人もいるかもしれない。多くのメンバーの主張は、団体の主張と、方向が反対ではないが、まったく同じでもない、と見るべきだろう。

(c) 講演会の講師、機関誌やウェブサイトへの寄稿者
多くの場合、個人の主張は、団体の主張と、方向が反対ではないが、まったく同じでもない、と見るべきだろう。団体による講演概要紹介などは、一致点を強調するように編集されている可能性があるだろう。

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いずれの場合も、団体とのつながりを指摘し、賛同していると推測することはよいのだ。ただ、その「賛同」の意味が、鋭いものでなく、鈍いものである可能性を考えておくべきなのだ。

- 7 -
世のなかには、(たとえば、近代科学の知識の概略にてらして) あきらかにまちがった信念をもっている人たちがいる。ここではその内容に立ち入らず、「変な信念をもつ」と表現しておく。

政治家が変な信念をもっていることがわかったら、その信念をまちがいだと認識している人は、その政治家を信頼しなくなるだろう。

政治家の支持者が変な信念をもっているとわかったとき、その政治家は信頼できない、と言う人がいる。この理屈は必ずしも成り立たない。政治家が、支持者たちのうち小さな部分がもつ変な信念を共有している可能性は高くないだろう。

しかし、支持者が変な信念をもっていると、政治家もその影響を受けて政策が変になる可能性があることはある。ひとつは、支持者の話を聞くうちに政治家が説得される可能性、もうひとつは、政治家が支持を得るために、(政治家の内心では賛同していなくても)支持者の主張を肯定的にとりあげる可能性だ。

- 8 [2017-07-26 追加] -
わたしは、Twitter内の言論が「敵・みかた」的になっていて、一方の陣営に広がっている主張に批判を述べたいとき、その陣営内と思われる人による批判を紹介したくなる。「陣営」のようなとらえかたをしないですめばそのほうがよいのだが。