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日本政府は緊縮でない政策をとってほしいが、安倍内閣を支持はしない。

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

この記事は、わたしが個人として社会に対して意見を述べるものです。わたしは財政や経済に関してはしろうととして発言します。地球の環境や天然資源が(人間社会に対する制約条件として)かかわることについては(その主題の狭い意味の研究者ではないが)専門知識をもつ者として発言することがあります。

書いてみて、政策や経済に関する認識の根拠が、しろうとが書くものとしても、あやふやなことが多いことを反省しています。これから気づいたら補足・修正しますが、残念ながら必ず補足・修正すると約束はできないことをおことわりしておきます。

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安倍内閣[注1]が政権についてから、わたしは、ネット上で(Twitterでわたしがたまたまフォローしている人びとに視野が偏っている可能性はあるが)、次のかこみ(引用ではなく、わたしが構成した表現)のような議論をたびたび見る。

安倍内閣の経済政策(いわゆる「アベノミクス」[注2])は景気をよくした。安倍総理がやめた場合、後任の候補となる人をみわたすと、自民党の他の政治家にしても、野党の政治家にしても、本人が緊縮志向であるか、緊縮志向の財務省に対して強く出られないかのいずれかで、経済政策は緊縮となり、景気が悪くなるだろう。他の方面の政策に不満があっても、安倍総理に続けさせるべきだ。

  • [注1] 2014年の衆議院議員選挙で切って「第2次」「第3次」とするのは煩雑になるので、2012年12月から現在までの安倍内閣を「現安倍内閣」と呼ぶことにする。2006年9月から2007年9月までの安倍内閣にふれる必要がある場合は「第1次安倍内閣」と呼ぶ。
  • [注2] 「アベノミクス」という語は、かこみのような議論に出てくる語として入れておいた。わたしは自分の議論で使うつもりはないし、この語の意味を論じることもしないことにする。

ひとまず「景気」という軽いことばを使ったが、「景気が悪い」ことは、失業者が多いことであり、貧困によって死ぬ人もふえるだろうし、自殺もおそらくふえるだろう、という理屈で、(特定のあいてに向けてではなく個人の感情をはきだす場面では)「『安倍やめろ』と言う連中は人殺しだ」というような発言(これも引用ではなくあやふやな記憶からの再構成だが)さえ見かけた。

わたしはそういう発言に賛同しないが、安倍さんの政治信条に賛同する人からそういう発言が出てくるのならば、なりゆきとしてはわかる。ところが、安倍総理憲法改正論(戦力の件、緊急事態条項の件、家族の件などいずれでも)や、安倍内閣の教育政策(たとえば道徳教科書の件)に対しては全面的に反対であり、自分はどちらかといえば左翼だと言いながら、緊縮政策はだめだから安倍さんに続けてもらうしかないのだ、と主張する人もいる。これはねじれすぎだと思う。

緊縮政策がいけないかどうかについては、わたしは、「緊縮政策」の意味を分けて考える必要があると思う。そのうちある意味では、わたしも、緊縮でない政策をとる必要があると思う。ただし、現安倍内閣の政策も、ある意味で緊縮であり、それを続けるのはまずいと思う。緊縮でない政策をとなえる総理候補が、もしまだいないのならば、総理になりうる政治家だれかを説得して、そうなってもらわなければいけないと思う。

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「緊縮政策」とか「緊縮財政」とかいう表現は、大きくわけて、国の統治機構[注1][注2]に関する政策の話題の場合と、国民経済[注3]に関する政策の話題の場合がある。

  • [注1] 立法・行政・司法のための国の組織をあわせてこのように表現した。お金を使うという面での大部分は行政機構である。
  • [注2] 中央銀行(日本では日銀)をこれに含める立場と含めない立場がありうる。定量的議論ではどちらの立場をとるかを明確にしないといけない。
  • [注3] これはほぼ、日本で生活する人や日本で事業をおこなう企業の所得をもたらす経済活動の全体をさしている。日本国籍をもつ人という意味の「国民」とは直接関係ない。(厳密な定義をしようとすると、複数の国にまたがった事業の扱いについていろいろと決めないといけないだろうが、ここではそれに立ち入らない。)

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国の統治機構に関する緊縮財政論の基本は、「小さい政府」主義だと思う。

統治機構の機能を必要最小限にしぼりこむ。歳出が少なくなるから、歳入も少なくてよい。税金が安くなるので、国民の幸福がます、という理屈だ。

(1980年ごろから?) 資本主義企業の自由を基本とする政治思想(いわゆる「新自由主義」)の人びとが、実際の政治を動かすことが多くなっている。彼らは、少なくともおもてむき、小さい政府主義を主張する。(軍備や原子力などの面では政府の大きな支出を期待する人びともまじっているが)。企業が利潤をあげて、国民経済や世界経済の規模が拡大することが、よいことであり、政策の目標にすべきだと考える。社会に必要な仕事も、できるかぎり民間企業にやらせる。そのために、公益事業の民営化や、規制緩和を主張する。国の主要機能は企業が自由に活動できる社会環境を維持することだと考える。そのために国には税収が必要だが、社会の状態が企業がもうかるようなものならば税率は低くてよく、税率を低くすることが企業活動を促進するとして、減税を主張することが多い。

これに対する、いわば「大きい政府」主義も、どんな方面の支出を期待するかによって、さまざまなものがありうる。

新自由主義」に対する、左翼、平等主義者、社会主義者などからの「反緊縮」論は、相対的には「大きな政府」主義に位置づけられるだろう。自由放任の市場では、富は集中しがちだ。実際は、大きな富をもつ資本家や企業が政府に影響を与えていて理想的に自由ではないが、それは富をますます集中させがちだ。経済全体の規模拡大は、貧しい人にとって、また多数の庶民にとって、自動的には得にならない。意識的な再分配政策が必要だ。また、貧しい人が教育や医療を受けられるようにすることや、貧しい地域でも安全に生活できるようにすることなどの、公共サービスも必要だ。公共部門は、小さくしすぎてはいけない (むだをはぶくべきではあるが)。(公共部門は、国、地方自治体などを含む。)

春日 匠さんが、ブログ「天使もトラバるを恐れるところ」の2017年6月22日の記事「その反緊縮とあの反緊縮は一緒ですか!? 」 http://blog.talktank.net/2017/06/blog-post.html で述べているように、欧米の左翼の政策論は、このような意味での「反緊縮」が主流になっている。

ところが、日本では、左翼も、緊縮政策(ここでいう「小さい政府」政策)を主張し、「新自由主義」的政策に同調してしまうことが多い。

そうなってしまったのはなぜか?

  • 「革新」による「保守」政治への批判のうちでは、金持ち・大企業に利益をもたらすような政府事業をやめるべきだという批判が主となりやすく、「保守」からとは対象がちがうものの、「政治のむだをはぶく」という方向は共通になってしまったのか?
  • (「革新」「保守」を問わず) 政治家の行動について、(公金流用にせよ、賄賂にせよ)私腹をこやすことが悪いとされ、清貧がよいとされがちだからか? ... 田沼時代が悪いとされ寛政の改革がよいとされるような(この件については反対論も聞かれはするが)、日本のむかしから支配的な価値観なのか?
  • (「革新」「保守」を問わず、自分たちが国から得るサービスのことはあまり考えずに) 税金は安ければ安いほどよいというとらえかたが支配的なのだろうか?

この件ではわたしも春日さんに賛成で、日本にも欧米に見られるような反緊縮論の政策が必要だと思う。

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日本では、国の統治機構に関する緊縮財政論として、もうひとつ、財務省の態度に由来するらしいものがある。わたしは仮に「財産管理主義」と呼んでおく。

増税や支出削減の必要性を主張する政府広報などで、国の財政を、家計や商店の会計にたとえてとらえるものがある。経済学者のうちには、それは大まちがいだという人もいる。わたしは、一面ではもっともだが、一面にすぎないと思う。

国(統治機構)の収支を考えるとき、借金は収入とはいいがたいので、歳入から国債の発行を、歳出から国債の償還をはずして、黒字・赤字を考える。赤字だと、国債がふえていくことになる。国債がふえるのはこわいことだ。

(確かに、国が(経済の意味で)信用をなくし、国債でお金を借りられなくなるとすれば、破綻であり、国が債権者に支配されてしまうおそれさえあるので、この心配は、まったくの杞憂ではないと思う。しかし、国にはときには借金をしても政策を実現するために事業をやるべきこともあるし、国民(など)から税金を徴収する権限がゆらがないのならば、それを信用の根拠として借金をすることはできると思う。国債をふやさないことは絶対的制約ではなく、国に対する他の要請とトレードオフ関係になりうる複数の要請のひとつとみるべきなのだと思う。)

国債がふえないためには、国の収支が黒字であるべきだ。現状が赤字ならば、税収をふやすか、支出をけずらなければならない。

そこで、財務省は、国の支出に関しては、必要性があきらかなものでも、けずれる可能性を考える。どの省庁も、予算要求は、財務省からけずられずにすむ(または新規に認められる)名目が立つものにする。(そこからの必然ではなく、現在の官庁のもつ文化のいろいろな特徴がかかわると思うが) 継続すべき事業が維持されず、5年くらいの時限の事業ばかりがふえる傾向が生じていると思う。

税収に関しては、財産管理主義のもとで統治機構にとって事前警戒的に考えると、税率をあげるべきだという判断に傾きやすい。たとえば所得税ならば、国民の所得がふえれば、税率をあげなくても、国の税収はふえるのだが、経済には自国の政策で制御できない要因もあり、税率を低くしても所得がふえることは確実ではないから、税率を低くしておくのは(統治機構の財産にとって)リスクの高い政策だ。財務省(のうちの財産管理主義で動いている部分)がそのようなリスクの高い政策を採用するのは、権限をもった政治家から、財産管理よりも優先される目標(たとえば経済成長)のために税率を低くしておくことを強制された場合にかぎられると思う。

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国民経済にかかわる政策では、経済成長がよいこととされ、具体的には、GDP成長率が高いのがよいとされることが多い。

わたしはそれに賛成しない。「景気」がよいということは、まず、失業者や貧困の状態にある人が少ないことだと思う。それを実現するためには、経済全体の成長よりも、富または所得の再分配のほうが重要だろう。再分配は富全体に制約されることは確かだ。しかし、経済全体の成長も、資源・環境の限界に制約される 【この議論はわたしのブログのうちでもほかの記事で扱うのでここでは簡単にしておく】。資源消費量をふやさずに富の生産をふやすようなイノベーションはありうるかもしれないが、あてになるものではない。

「失業者を減らすためには経済成長率をあげる必要がある」というのはこれまでの経験則としては正しいのかもしれない。そうならば、社会のほうをその経験則にしたがわないように変えていかなければならないと思う。

そのために、たとえば、政策的な雇用再分配政策 (少人数の長時間雇用よりも多人数の短時間雇用が雇い主にとっても有利になるようにすること)、あるいは、ベーシックインカム政策(ここでの意義は、職がない状態は必ずしも悪くないとすること)、などを実現に向けて考えるべきだと思う。

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国民経済に影響をおよぼす政策としては、財政政策と金融政策がある。

ここでいう財政政策とは、国の支出を、国民経済への影響を(も)ねらってすることだ。

直接に経済成長をめざした政府の事業も、原理的にはありうる。しかし実際に計画するのはむずかしいと思う。(近ごろの日本の「科学技術イノベーション政策」では、経済成長に寄与する研究計画にお金をつけたがっているけれども、研究を始める前に予想するのは賭けのようなものだ。)

国民経済に流通するお金をふやすことを主要目的のひとつとして政府支出をする公共事業もありうる。ニューディールはそういうものだったのだろう。

景気をよくすることを、経済成長ではなく、貧困や失業を減らすことだととらえれば、社会福祉、教育(を受ける権利の保障)、社会インフラの維持、知的公共財の維持などは、景気対策のための公共事業とみなすこともできるだろう。そこにさらに、再分配を意図した仕事も追加すべきだと思う。

公共事業には、新しい社会インフラの建設や、先端的科学技術研究、などもある。そういうものの需要は無限に大きくなりうるが、それに見合った供給は不可能だ。金額規模の上限は、財政政策のほうの観点から決まるのかもしれない。それで実際に何をやるかは、課題別に、大きな不確かさを考慮したうえでのリスク・便益評価をして決めるべきだろう。

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わたしは金融政策についてはよくわからない。今のところ、およそ次のように理解している。

金融政策は、国民経済にお金を流通させる(その量を調節する)ことだ。

お金をふやしただけで、実質的な富が変わらないならば、通貨の実質価値が下がるだけで、インフレだ。すでに通貨を持っている人から実質的な富をうばうことになる (それをどこかに再配分する効果はあるが)。もし、結果として実質的な富をもふやすことができれば、インフレにならないですむかもしれない。

流通するお金の量を変える手段としては、金利を変えることと、通貨(多くは中央銀行券)の発行量を変えることがある。

貸し出し金利を下げれば、流通している通貨はふえるだろう。これがふつう「金融緩和」といわれる。中央銀行が民間銀行に貸し出す金利を下げるのが基本だが、これは、もし中央銀行の財産管理の立場で考えれば、まずいことをやっていることになる。強い金融緩和は、中央銀行の利害ではなく国民経済の立場で考えてはじめて出てくる政策だろう。(中央銀行に利子収入がなくてよいならば) ゼロ金利までは緩和できるが、それ以上の緩和は、もしできるとしても、利子率ではなくもっと技巧的な方法を必要とする。

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わたしはインフレは悪いことだという印象をもって育った。第2次大戦後に物価が急に上がり貯金のねうちがなくなったという話をきいて、ひどいことだと思った。1960年代も、毎年のように電車賃や文房具代などが上がった。収入(給料など)が物価と同様に上がってくれる保証がないので、物価値上がりは悪いことだと感じられた。物価が上がらない世のなかが理想のように感じられた。

しかし、その後、不景気は失業がふえてよくないが、デフレは不景気、インフレは好景気と共存しやすい、ということも学んだ。もし、インフレ・デフレから景気への向きの因果関係があるならば、国の政策として、デフレを避けるべきであり、適度なインフレ(たとえば物価上昇率 2%/年)を目標とするべきだ、というのは、理屈ではわかる。もっとも、さらにその後、インフレで不景気という状態もときには起こり、「スタグフレーション」と呼ばれた。インフレ目標をまもれても景気目標が満たされるとはかぎらないのだ。

国の政策として「適度な」インフレが目標とされるのは、国民経済への貨幣供給よりも、国(統治機構)の財産管理のほうからの要請ではないだろうか? (自国通貨だての)国債がある場合、インフレならば返しやすくなるが、デフレだと返しにくくなる。(激しすぎるインフレでは国債の借り手がなくなる。)

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現安倍政権の時期には、2009-2012年の民主党政権の時期よりも、景気がよい、という評判だ。GDP成長率は高めであり、失業率は低めだ。雇用がふえたのはパートタイムばかりではないかという疑問にこたえて調べたところでは、常勤雇用もふえているそうだ (わたしは出典を確認していないが)。学生の就職の求人もふえているそうだ。

ただし、2015年ごろまではよかったが、その後は停滞している、という評価もあるそうだ(これも未確認だが)。

しかし、この景気のよさは、現安倍内閣の経済政策がよかったことに由来すると言えるのだろうか。わたしは、そうでないと主張するわけではないが、いくつか、疑問に思うことがある。

  • 民主党政権が始まった2009年はいわゆる「リーマンショック」の世界不況の直後だった。また日本では2011年に東日本大震災原子力発電所事故があった。現安倍内閣の時期はそのような困難が薄れてきた時期なので、日本の政策がどうあろうが景気はよくなる可能性が高かったのではないか?
  • 金融政策はおもに日銀が決めている。内閣のリーダーシップは、日銀総裁を交代させたという点ではあったと思うが、それだけのことではないか?
  • 消費税の10%へのひきあげを、野田佳彦総理は必ずやると言った。安倍総理は延期した。このちがいは2012年の衆議院選挙結果には影響したようだ。しかし、とりやめでなく延期だったところから見ても、この件の政策が明確にちがっていたのではなく、数量判断が少しちがっただけではないか?

また、現安倍内閣の税制政策は富んだ人びとに有利なものであり、再分配に向かっていない。社会保障(たとえば生活保護)の基準をきびしくしたことで、貧困は強まったという話もある。

「緊縮」でないとともに再分配を重視した政策への転換が必要であり、それができる政治指導者を早くみつける必要があると思う。

(減税や「増税をしないこと」を最大の争点とすると「小さい政府」論者が勝ってしまう。まず再分配政策の給付やサービス提供を提案して賛同を得て、そのために税収が必要なことを納得してもらう、というような努力が必要だろう。)