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巨大火山噴火と原子力発電所稼動の複合問題

原子力規制委員会の、原子力発電所の再稼動を認めるかどうかの判断について、さまざまな議論がある。

ここで起きている問題の原因としては、原子力規制委員会の役割を決めるにあたって、政策的判断を拘束しない態度で価値判断をできるかぎり含めないで行なわれるリスク評価と、その結果と政策的価値判断とを組み合わせて行なわれる(国としての)リスク管理とのしわけや担当の明確化ができていないことが大きいと思う。(ただし、ここではその議論に深入りしないことにする。) (この段落 2014-06-08 改訂。)

ここでは、地球科学がからんでいるいくつかのリスクの問題について思うことを、複数の記事に分けて書こうと思っている。ただし、わたしは地球科学者ではあるが、火山、地震、断層などは専門外である。また、委員会で議論されている内容についても、背景となる科学的知見についても、資料に立ち入って検討しているわけではない。わたしよりもこの課題に専門が近い地球科学者たちがネット上の公開の場で話したり書いたりしていることを材料として、わたしなりに解釈したものであることをおことわりしておく。

原子力発電所の従来の安全評価では、過去数百年間に起きたのと同様な火山噴火を想定した対策は考えられているらしい。たとえば、火山灰が数十センチメートル積もるといった事態だ。

最近、九州電力の川内(せんだい)原子力発電所の再稼動に関して議論されているのは、もっとまれだが、もっと巨大な噴火に関する心配だ。

鹿児島湾の、現在の桜島から北の部分は、姶良(あいら)カルデラと呼ばれる、約3万年前(2万9千年-2万6千年前らしいがここではこの概数表現にしておく)に巨大噴火を起こしたところなのだ。桜島はそのあとできた火山だ。鹿児島県の広い範囲を覆っている「シラス」は、火山から噴出した岩石が高温の気体といっしょに流れた「火砕流」という現象による堆積物で、そのうち大きな部分がこの姶良カルデラの3万年前の噴火のときのものだ。この火砕流が、川内にも達していた。なお、火砕流のほかに、大気中に吹き上げられた火山灰のたぐい(専門用語では「テフラ」という)が関東地方などにも達していて「AT」(姶良・丹沢)テフラとして知られている。

火砕流の直撃を受けた地域では、人は生き残らないだろう。そこに原子炉があれば、それを停止したり冷却したりする制御も不可能になってしまう。

原子力発電所火砕流が達する確率はよくわからないが、川内には3万年前より前にも別の火砕流が来ているので、この1地点について、万年の桁の年数に一度起こる現象と推測される。しかし、数万年に一度だからといって、今後数十年の間に起こることはないとは言えない。人間社会にとっての「低頻度・大インパクト」現象の典型例だといえるだろう。

巨大噴火の火砕流は、数百万人の住む地域に及ぶ。数百万人の死者が出る災害になる可能性が高い。もし前兆を察知して避難ができれば死者は減らせるが、住む場所のなくなった被災者が数百万人におよぶだろう。そういう、人間社会にはどうしようもない大災害と比べれば、それに原子力施設の事故が加わることによる被害の増加は無視できるほど小さく、したがって、原子力施設の稼動の可否にとって、巨大噴火は無関係な問題であり、そのような問題を持ちこむのは稼動反対派の「ためにする」議論だ、という人もいる。

それに対して、火山学者、とくに鹿児島大学の井村隆介さんはこのように論じる。姶良カルデラ巨大噴火が起きれば死んでしまうにちがいない鹿児島の住民にとっては、原子力施設があるかどうかはどうでもよいと言える。しかし、巨大噴火で直接致命的な被害はないが火山灰が達する、たとえば関東の住民にとってはどうか。単なる火山灰が降るだけでも迷惑だがそれは昔から人間が対処してきたことだ。ところが火砕流で破壊された原子炉の中にあったさまざまな放射性物質が火山灰といっしょに降ってきたら、これまでの原子力事故被災地よりもはるかにやっかいな事態になる。

放射性をおびた火山灰から生じる困難のうち、自然の火山灰でも同様に起きることのほかは、人の決定の結果として生じた人災なのだ。影響は国境内にとどまらないので、日本国が外国に危害を与えた、ということにもなってしまうだろう。

少し詳しく言うとこの違いを生じるのは原子炉の稼動ではない。稼動を止めても使用済み核燃料があれば同様の危険はあるのだ。しかし、核燃料を運び出すためには、稼動していないことが必要条件となる。

原子力規制委員会では、このような巨大噴火をもいちおう考慮の対象としたのだが、九州電力の「事前に予知して対処する」という回答でよいとしてしまったようだ。

火山学者はこの九州電力の言い分に納得していない。火山噴火は地震よりは予知可能性が高いようだが、いつも予知できるとは限らない。(井村さんは2011年の霧島新燃岳の噴火を例にあげていた。) 巨大噴火ならばなんらかの前兆現象はあるだろうと予想されるが、前兆現象から、巨大噴火になるか、それほどではない噴火(桜島の大正の噴火など、ローカルには重要災害になるものを含む)になるかを噴火前に区別できるほど、経験も理論も発達していないのだ。もし、「巨大噴火になる可能性が多少ともある前兆現象が見つかったら原子炉を停止し核燃料を運び出す」と決めるとすれば、実際の巨大噴火の確率よりも桁違いに高い確率で事前警戒的停止をしなければならないだろう。

前の段落で「火山学者は」という表現をしてしまった。火山学者の間で、巨大噴火の確率や影響の規模についての定量的見積もりは、だいぶ違うと思う。しかし、もし火砕流が直撃したら原子炉のような人工装置は制御可能な状態でなくなるだろうことと、予知が確実にできるだけの科学的基礎がまだないことに関しては、「専門家間の見解の一致」があるといえるのではないかと思う。ただし、国(とくに原子力規制委員会)に対して、この専門家の見解をしっかり考慮に入れてほしいと主張するかどうかは、個人の価値判断であり、火山の専門家の間でも個人差が大きいだろうと思う。

4月24日に、井村さんの講演がネット中継されているのを部分的に見た。質疑応答で、井村さんは、稼動の可否は政策決定の課題であり、自分は専門家としてリスク評価を提供するのだ、という立場を示していた。ただし個人としての価値判断を述べれば稼動に反対だとも言っていた。この切り分けは、たぶん必要なのだが、とてもむずかしい問題だと感じた。

[2013-12-27]の記事で話題にしたが、地球温暖化に関する江守正多さんの態度について松王政浩さんが「緊張感」が見られると言っている。わたしはまだ松王さんの「緊張感」と「危機感」の違いはよくわからないが、川内原子力発電所の件についての井村さんの態度はそのどちらかに対応するのだろうと思う。】