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活断層と原子力発電所

[2014-06-02の記事]で予告した「地球科学がからんでいるいくつかのリスクの問題」に関する2つめの記事で、記事の性格についてのおことわりはくりかえさないが前の記事と同様だ。

活断層原子力発電所の稼動あるいは建設の可否の判断にかかわる話題は、前に[2012-11-10の記事「活断層かどうかと原子炉稼動の判断は分けて考えよう」][2013-05-28の記事「日本地球惑星科学連合2013 U-06 地球科学者の社会的責任」]に書いた。ここでは、その後に重要だと思ったことにしぼって書く。

第1点は、活断層原子力施設(そのほかの人工建造物でも同様だが)の安全性にとっての意義は、異質な2つの現象に分けられることだ。上記2013-05-28の記事でふれた地球惑星連合のセッションの中で渡辺満久さんが「『ゆれ』と『ずれ』」という形でとりあげていた。この2つの問題を分けて扱うべきことは、個々の活断層の危険性に関して渡辺さんと見解が一致しない専門家も、合意するところだと思う。

ゆれ」とは地震動だ。ほとんどの地震は、震源での断層のずれを伴っている。活断層(地球の歴史のなかでわりあい新しい時期に動いた証拠のある断層)があれば、それがまた動くことによって地震が起こり、そこから地震波としてまわりに地震動が伝わる可能性がある。施設の近くにそういう活断層があれば、ない場合よりも施設が地震動にさらされるリスクがいくらか多いだろう。

ずれ」は、ここでは、施設の建造物の隣り合った部分の間の位置がずれること、あるいはずらそうとするような力が働くことをさす。これを警戒する必要があるのは施設の直下に断層がある場合に限られる。新たに断層が見つかった場合、あるいは断層があっても動く可能性がないと思われていたものが動く可能性があると認識が変わった場合には、その施設の安全性に対して、従来は評価にはいっていなかった要因を考えなければならなくなる。

2011年の大震災以後表面化した問題は、この「ずれ」を起こしうる断層があるのにこれまで安全評価上無視されていたのではないか、ということだ。「ゆれ」のほうは、従来から行なわれている地震動のリスク評価に対して、いくらかの定量的な違いをもたらすだろうが、根本的に新しい問題を加えることにはならない。

第2点として、活断層を扱う専門家は、必ずしも同様な専門的教育を受けた人とは限らない。地球物理(地震、測地)、地質(構造地質、地史)、地理(地形)、土木(地盤工学、測量)などの別々の専門分科にわたっている。ただし、1970年代ごろから、地震防災への関心を背景として、「活断層」というキーワードのもとに専門分科を横断する形で、学術的知見が共有されるようになってきた。たとえば「活断層研究会」という団体ができて1985年から「活断層研究」という学術雑誌を出している。2007年には日本活断層学会ができ「活断層研究」はその学会誌として再発足した。

活断層研究者の間で、活断層とはどんなものかについて、およその合意は得られているが、必ずしも明確な一致はない。1990年代ごろには、活断層は最近10万年くらいの間に動いた(と推定されている)断層をさすのがふつうだったようだ。その後、年代決定の精度が上がり、もっと古い断層の動きを科学的に論じることが可能になった。それに伴って、たとえば最近40万年間に動いた断層を活断層として扱う専門家もいる。このように対象を広げることは、純粋科学の立場のほか、活断層の動きに対して事前警戒的であるべきだいう価値判断の立場からは歓迎されるだろうが、他の原因の災害などのリスクと比べて活断層をこれ以上重視する必要はないという価値判断の立場からは反対されるだろう。

おそらく、活断層専門家の間で、断層型の現象についての事実認定の違いは実はあまり大きくないだろうと思う。ただし、それを活断層と呼ぶかどうかは、それぞれの専門家個人の経歴による用語の習慣によっても違うし、さらに、「活断層」という用語が規制政策で使われているので、施設運転の必要性や活断層のリスクと他のリスクとの重みづけなどに関する各人の価値判断が、ときには意識的に、ときには無意識に影響を及ぼしてしまうだろうと思う。

わたしは、現地に見られた断層型の現象を活断層と呼ぶかどうかはどうでもよいと思う。何と呼ばれようと、それが「ずれ」を起こして施設をこわすリスクの評価がほしいのだ。ただし、断層型の構造の存在については一致できても、それがどのくらいの確率でどのくらいずれる可能性があるかについては専門家の間の個人差が大きいと思う。複数の専門家による評価が大きな幅を持ったものになるのは当然だ。

第3点として、断層の(存在、ずれの規模、確率などの)事実認識が仮に同じでも、再稼動可否の判断は違いうる。そこには価値判断がはいる。「稼動した場合の(たとえば原子力事故の)リスクと稼動しなかった場合の(たとえば電力不足の)リスクとを比較して判断する」と決めたとしても、比較をどのような指標によってするかには、価値判断がはいる。「再稼動可否の判断は社会が(具体的には国の行政が)することであって、専門家はその根拠となる事実認識を提供する」というのが筋ではあるが、専門家が事実認識を述べるときに、個人としてもつ政策に関する意見を完全に排除することはできないだろう。

とくに、専門家が評価対象となる事業と利害関係をもつと、意図的に事実認識を曲げる不正はないとしても、事業者のつごうのよいような解釈をしやすくなるおそれがあるだろう。活断層の専門家の場合(親戚などの個人的な事情を別として専門集団としては)、電力事業者との直接の利害関係は生じにくいだろう。鉱業(地下資源産業)との利害関係は生じやすく、鉱山や廃棄物処分場の件ならば要注意だが、発電所などでは重要でないだろう。建設業との利害関係も生じやすく、とくに建設の可否の判断ならば重要だ。(すでに建設されたものの再稼動の判断とは間接的な関係になる。)

震災前、原子力施設立地に関する専門的知識をまとめる組織としては、土木学会の原子力土木委員会が重要だった。その中には電力事業者に勤務する人も多く含まれていた。この委員会の中に活断層評価部会が、土木のほか、地質学や地形学から出発した活断層研究者も含めて組織されていた。ただし、地質・地形系の研究者の全体から選ばれたというよりも、産総研に所属した経歴をもつ人から選ばれていたようだ。産総研経産省傘下の独立行政法人だが、地質関係はもとの地質調査所であり、鉱業以外の特定業界とのつながりは薄いと思われる。「原子力むら」という形容はこの人たちにはあたらないと思う。しかし、日本の活断層研究者のうち少人数の人たちだけが継続的にこの活動にかかわったことは不適切だったと思う。そして、その人選の理由だったのか活動にかかわった結果だったのかはわからないが、彼らが他の活断層研究者よりも断層が危険である可能性を小さく見積もる傾向があったのだと思う。

原子力規制委員会の発足後には、地震学から出発した活断層の専門家である島崎氏が規制委員になったほか、以前よりも広い顔ぶれの活断層研究者が専門家として原子力発電所の安全性評価に加わった。これまでに規制委員会がくだした判断には、建設時の評価で無視されていた活断層の存在を認めた場合も、指摘があったにもかかわらず認めなかった場合もある。個別の判断についてコメントする材料をわたしは持っていないが、このように事例によって判断が分かれるのは健全なことだろうと思う。