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公的機関の研究事業の事情

【この記事はまだよく整理されていません。しばらく書きかえを続けます。】

労働契約法2012年改定の問題に関する3月28日の記事についてTwitterで発言したらいくつか反応があった。多くは賛同だったと思う。ただし、強い批判として「国の事業だけ特別扱いを要求するのでなく、民間と同一条件であるべきだ」というのがあった。28日の記事でも予告したようにこれから特別扱いが必要と考える事情の説明を書く。ただしこれについては、異論がいろいろあるかもしれない。

ひとことでいうと、公的部門(国や地方自治体の予算による事業)であること、研究事業であることが複合して、解決がむずかしい問題が生じている。

本筋として特別扱いしてもらわないと困るのだと言いたい件と、本筋は国の大きなしくみを変えるべきだが当面は国のしくみに現場が適応するのを許してほしいと言いたい件が混ざっている。

わたしの述べることが正確であるかどうかには自信がない。わたしは独立行政法人に雇われて働いていたが、管理運営にはかかわっておらず、そのしくみを研究してきたわけでもない。独立行政法人内で、(わたしよりいくらかは組織のしくみに詳しいと思われる)人々がそれぞれ個人的に話していたことの記憶をわたしなりに組みたてなおした議論にすぎない。組み立てなおしているので、だれかの議論の受け売りではない。証拠としての信頼度はいわゆる「ソース(source)おれ(俺)」のレベルだ。ただしそのレベルの記述の内では、よく考えているという自負はある。【ここまで前置き。】

【ここから複数の論点を列挙する。論点どうしの関係はまだ整理されていない。公共部門一般の特徴、研究事業一般の特徴、現代日本の公共部門に限った特徴が混ざっている。】

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公的部門の仕事には、営利企業の経営の理屈がそのままでは成り立たないことがある。費用は金銭の尺度ではかれるが、効果(業績・成績)は金銭の尺度で適切な評価ができない。費用と効果の比率が定量的に出ないので、費用に無頓着になるか、逆に費用ばかりを気にすることになりがちだ。

現代日本の世論(セロン) 【「輿論」(よろん)と同じ意味とはとてもいえない。マスメディアやネットメディアで増幅されがちな議論】では、「税金は安いほうがよい。公務員は少ないほうがよい。公務員の給料は安いほうがよい」という主張が出てくると増幅されやすい傾向がある。実際のむだの指摘もあることはあるが、欧米諸国に比べて少ないのにさらに減らせというのは不合理なこともある。公務員の待遇を悪くすれば民間で求められる能力のある人から抜けていき、税金の節約を上まわるサービス低下になる可能性が高いと思う。

世論は公益を私益に向けていると見える例にきびしい。それは筋としてはもっともだが、そのきびしさが税金を効率的に使うという目標から見て合理的なレベルを越えることがある。順法ルールの手続きやコンピュータじかけで人に入力させる枠がふえて、それに対応するための手間が、本来の仕事(研究事業ならば研究)に向けられる労働時間を奪うのだ。

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さて、公共部門の予算は、義務的経費と裁量可能経費に分けられる。国民に対して長期の約束をした社会保障や義務教育などが義務的経費で、それ以外(長期の約束への追加を含む)が裁量可能経費だ。厳密な義務的経費は少ないが、事実上の義務的経費はかなり多い。ところが研究の予算は基本的に裁量可能経費だ。学術研究予算全体としては事実上義務的になった部分もあるとも言えるが、その中で何の研究を推進するかは行政の裁量になる。

そして、政治家も官僚もそれぞれ、裁量可能経費の使い道を変えたことで、特徴を出したがる。政治家には改選があり、中央官僚には頻繁に異動がある。そのたびに、従来の事業にとっては打ちきりの危機がくる。ゆりもどしもあるが、もとにもどったほうが落ち着く立場の人もいれば、また変わるのはかなわんという人もいる。

財務省にとっては事業予算額を削ることが手がらになる。そのほかの省の各課にとっては新事業を始めることが手がらになる。非常に長い伝統のある旧事業をまもることも手がらになりうるが、少し前に始めた事業に関しては、廃止されるのは困るが減額はやむをえない、となりがちだ。そこで、必要以上に多数の事業がならび立つことになる。各事業の経費はしだいに減額されていくという経験則が生じる。

ときには次のような事情もあるようだ。異動の激しい中央官僚は内容のプロではなく、初歩から専門に追いつくまで勉強するほどの時間もないので、考えがたりないまま事業計画を決定してしまうこともある。次の代は正面からそれを失敗だと言って廃止するのをはばかり、減額したうえで、他の事業を始める。

定型サービスならば、慣れれば効率化して安くできるようになるという理屈があるが、研究はそうではない。設備は事業の初年度にそろえるべきだという理屈も、事業計画の中に設備設計が含まれる場合にはあてはまらないし、事業時限が実質的に連続した学問の進展を人工的に切り取ったにすぎない場合も実情に合わない。

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労働行政は、近ごろになって、日本社会全体があまりに短期的雇用に頼る傾向があると認識し、雇用の継続性を求めるようになった。ところが、労働契約法の2012年改定の際に、科学技術の現場を知っている人が関与しなかった。(大学の法学の教員は関与したはずだが、たまたま、研究費による雇用の現場をよく知らない人だったようだ。)

科学技術行政も「人材育成」を言うが、それは将来頂点に立つ少数の人を育てるという趣旨になりがちだ。科学の現場で雇われる、頂点よりもずっと数の多い人々のキャリアの継続は考えてこなかった。しかし現実に研究をするのは人間であり、事業の切れ目(多くは5年)ごとに発生したり消滅したりはしない。アメリカ合衆国を中心とする巨大な科学技術人材プールとの人の入れかえを想定しているならば、労働力を増減可能な資源とみなすのもそれなりに合理的かもしれない。ところが、日本の入国管理行政が、期限つき雇用ではなかなか永住権を出さないので、日本の職場は外国人の科学技術労働者にとって魅力的になりにくい。

労働行政が科学技術行政のことを知る必要がある反面、科学技術行政も労働行政からの指摘をまともに受けとめて、雇用の持続性を高めることを考えるべきだ。ただし、研究者については無期限化よりも期限の更新のほうが雇用の持続性が高まるのだと主張して、労働法の例外規定をかちとるべきだと思う。(毎年1割の整理解雇の心配をしながらの無期限雇用よりは、5年に一度更新確率5割の関門がある期限つき雇用のほうが、落ち着いて仕事ができると思う。)

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行政サービスについては、「公設民営型」(と仮に呼んでおく)、つまり、政府が目標を設定し、営利企業がそれを請け負うという形がある。企業にとっては、同じ効用を安い費用で達成すれば利益が上がる。

研究の場合も企業への委託はありうるが、目標設定も、達成されたものの評価も、形式的にはできても実質的な中身に立ち入ってすることはむずかしいだろう。また、研究事業では、予定しない成果が出ることもあるし、予定した成果が出ないのは失敗とは言えるが必ずしも過失でも能力不足でもない。

研究論文による業績評価は、研究者が個人単位に目標設定し研究をして著作をする場合には適切かもしれないが、テーマがトップダウンに決まって組織でやる研究に適用すると精度が悪い。

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さて、現代日本独立行政法人は、世界的に見て変な制度だと思う。役所ではないが、民間会社の特徴がない。実質「独立」ではなく、役所の子会社のようなものだ。わたしは英語で自分の所属組織を説明するとき、日本のなになに省のsubsidiary (子会社)だと言うことにしている。日本の法律上の意味で「子会社」ではない理由は、親会社から資本金が出ていないことだ。独立行政法人には資本金そのものがほとんどない。【2013-07-11追記: 「資本金がない」と書いたのはわたしの誤解でした。しかし、民間企業のような意味での資本を実質的に持っていないと言ってよいと、なお思っています。】【資産はあるが、使われている設備だけであり、使わないなら国に返せと言われる。くりこしは可能ではあるが、貯蓄があると交付金が減るので、実際くりこされるのは、予算執行の詳細が決まらない年度初めに末端で事業を継続するためのバッファーのぶんにすぎない。】親会社から来るのは資本ではなく毎年の運転資金だ。そこで、子会社としては、親会社の長期的意志でなく、今の親会社の担当者の意向に合わせないといけない。それができる人が子会社内で実質権力をもつ。

独立行政法人といえば、世論(セロン)は退役官僚の「天下り」への非難になりがちだ。しかし、研究機関に関する限り、天下りがむだづかいのもとという非難があたることは少ない。退役官僚であっても専門家として招かれた場合もある。また、官僚的能力が高い人の場合は、現役出向組よりも広い範囲の行政ビジョンを提供でき、現時点の親会社(特定の役所)との一方的な力関係を少し対等に近づける、という意義がある。ただし長期的な存在である親会社(特定の役所)への従属意識を強めるという欠点もあり、その部分では天下り批判はあたっている面もある。わたしは、退役官僚の存在はかまわないが特定官庁からばかり来るのはよくないと思う。

日本の独立行政法人は制度設計を誤ったと思う。イギリスなどを手本にした行政サービスのagency化ならば、公設民営型にすべきだった。それならば、請け負い企業内の雇用は民間企業ルールになる。国の事業の長期的変化に対する労働者解雇などの衝撃緩和能力を民間資本(資本があることが重要)に期待することになる。請け負うのが大資本・金持ちに偏るのはまずいと思うので、資本形成も支援する必要があるかもしれない。

研究事業をする独立行政法人には、はえぬきの人もいるが、その多くは技術屋で、人事異動で管理部門にまわされることもあるが、管理の主導権をとるのは彼らではなく、親会社(本省)から出向の人だ。(企業から出向の人もいるが、特定企業に依存しないような人事がおこなわれるので、まとまった勢力になっていないと思う。) 彼らの文化は順法第一であり、成果を出すことよりも不正を防ぐことを優先する傾向がある。労働契約法問題に即して言えば、5年後に「雇用無期限化の権利をもつ労働者が生じてその給料を払う財源がない」となるリスクをかかえることのほうが、いい人が応募しない、あるいはいい人がいても4年で追い出さないといけない制度を作ることによって、それまで5年間の研究業績が低くなることよりも、こわいのだ。(営利企業ならば、利益をあげることに貢献する人を確保することを優先するだろう。ただし、前に述べたように、公的事業では利益に基づく判断ができるとは限らない。)

法人は、法人のidentityにかかわる仕事については、法人がなくならない限り死守すると言うかもしれない。それは多くの場合、独立行政法人になる前から続いている事業だ。これを「譜代部門」と呼ぶことにする。法人の経営者は、譜代部門の期限つき職員については無期限化してよいと考えるかもしれない。1990年代終わりごろからの科学技術政策でふくらんだ事業は「外様部門」だ。親会社の意向で存在し、親会社の意向が変われば消滅する。ここでいう「部門」は必ずしも研究対象による分割でなく、技能の種類による分割かもしれない。法人の管理者は、譜代部門については意地を張ることもあるが、外様部門については、第一に順法、第二に親会社の現在の担当者の意向にさからわないこと。(もちろん成果を上げることは「意向」の内にあるが、何が成果であるかの判定が親会社しだいになり、「世論」に依存する。) そして政府の意向が変わったら外様部門を切り捨てて譜代部門が生き残れるようにする。この差別は外様部門に雇われた立場から見れば理不尽だが、半自然発生的組織の原理としてはもっともだ。純粋人工的組織よりもうまく働きそうだ。

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国には科学技術基本計画、法人には中期計画という5か年計画はあるが、長期計画はない (法人によって「長期ビジョン」を作りはじめたところはあるが)。中期計画は親会社によって毎回変わりばえを求められ、scarp and buildしないと法人として成績が悪いと見られる。中期計画の始まりの時点で次の中期計画はかげも形もない。いま元気のよい部門でも、10年先に無期限雇用ができるという保証はできない。科学技術政策も、世論(セロン)によって、そして予算編成時の競争によって、変わりばえが求められ、同じものが続くのは成績が悪い扱いをされる。おかげで、実質的継続事業でも新事業とされて担当機関の選抜から始めたため開始が年度の後半になり、労働者が数か月失業する事態になりかけたこともある(実際失業したか、別の事業との間でやりくりして雇用を続けることができたか、わたしは確認できていない)。

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役所の新事業は、たてまえとしてはトップダウンに企画されるのがよいとされることが多いが、現実にはほんとうのトップダウンによる企画は少ない。役人の人数が少なすぎ、専門を学ぶ間もなく異動するので、企画を書けないせいもあるが、予算は末端からの要求を選考して要求してきたところにつけるものだという伝統のせいもあるらしい。独立行政法人にまかせたい新事業の構想がある場合、役所は役人を独立行政法人に出向させ、法人から計画提案を出させる。公募の場合も、役所には簡単な仕様書を作る人間時間しかない。応募側の提案書が実質内容を決めるが、公募期間は短いので、役所の意向を事前に聞いた法人の勝ちになる。天下りよりもむしろ現役出向組のいるところが強い。今の役所の行政は公務員定員などの制約の外に言うことをきく子会社を持つことで成り立っている。これは不明朗だと思うが、本気でコネなしの公募で政策を進めるには、役所本体に、ねらいを正確に表現する仕様書を作れるだけの人間時間が必要だ。

世論(セロン)には「政府の下に新法人をつくることは悪だ」というのもある。そうすると、新しい事業を始めるには、既存法人に業務を追加するしかない。譜代業務とする法人がない分野にとっては不幸なことだ。むしろ民間企業請け負い型にしたほうがよいと思う。ただしその場合は役所側に公益と不確実性を考慮できる目標設定者が必要だ。