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ダム建設はその目的から考えなおそう

やんばダム【わたしは「八ッ場ダム」と書くことを避けたい。理由は[別記事参照]】についてのニュースがあった。「国土交通省が他の策と費用の比較をした結果、ダムのほうが安上がりになることがわかった」というような話らしかった。情報もとは国土交通省河川局だろうと思ってウェブサイトを見たら7月に改組され「水管理・国土保全局」になっていた(URL http://www.mlit.go.jp/river/ は変わらず 【[2019-10-13 補足] このURLは有効ではあるが http://www.mlit.go.jp/mizukokudo/ に誘導されるようになった】)。ところがここにはニュースに対応する情報が見あたらない。

読売新聞を確認すると、「国交省整備局『八ッ場ダムは建設が最良』と結論」(2011年9月13日12時33分 読売新聞)とある。(あとで気づいたのだが、毎日新聞の報道「八ッ場ダム:『検討の場』初会合 流域首長、政府を批判 」(毎日新聞 2011年9月13日 11時50分)のほうが詳しい。) 【日本の新聞社のウェブサイトの記事は数週間しか保存されないようなので遠からずリンク切れになるだろう。英語圏ではなん年も残してあるところも多いのだが。】

そこで関東地方整備局のウェブサイト(http://www.ktr.mlit.go.jp )を見ると、9月13日の会議は「八ッ場ダム建設事業の関係地方公共団体からなる検討の場」の「検討の場(第1回)・第9回幹事会」だったことがわかった。

「検討の場」の紹介のページにある書類を見ると、その構成員は、茨城県、栃木県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、古河市、足利市、館林市、藤岡市、長野原町、東吾妻町、加須市、野田市、江戸川区の各首長と、検討主体として関東地方整備局長となっている。制度は昨年9月に作られたらしいが、正式な構成員が集まるのは今年の9月13日が初めてだ。ただし出席者は代理のこともある(たとえばこの回、東京都は副知事が出席している)。この本会議の準備として、10月1日から8回、幹事会が開かれている。幹事会は都道府県の土木部長・水道局長などと整備局の河川部長で構成されている(市町村代表ははいっていない)。

「検討の場」は明らかに決定の権限を持っていないが、自治体の執行の権限を持っている人の合意をとりつける場、という印象を受ける。しかしこんな構成でよいのか。下流の強大な自治体の意向に上流の弱小自治体はさからいがたいのではないか? あるいは、ダム計画抜きでは立ち行かなくなっている上流の首長が見捨てないでくれと下流自治体に陳情するのではないか?

そして、本会議は短時間だから、議論を煮詰める場は幹事会であり、そこでは土木系の技術官僚どうしで話が進むのだろう。専門的な内容を専門のことばがわかる人どうしで議論することは必要なのだと思う。しかし、同業の専門家どうしは利害も共通になりがちで、それが社会全体の利害からみて偏ったものになるおそれもある。合意を求める前の案をつくる段階に、専門のことばはわかるが利害を共有しない人を意識的に入れるべきだろう。この場合、水文水資源学会や自然災害学会で、土木工学出身ではないが土木出身の人と議論をかみあわせている人を見つけるのはむずかしくないはずだ。

さて、整備局は首長たちに何を示したのか。まず「資料1. 八ッ場ダム建設事業の検証に係る検討の経緯」(000044333.pdf 、5ページ)を見て、その他の資料はざっとめくってみた。

資料1によれば、「治水」「利水」「流水の正常な機能の維持」という3つの目的について、それぞれ、ダムを建設する案とそのほかいくつかの案について費用を比較したそうだ。

治水」とは洪水調節であり、利根川には「河川整備計画」が制定されていないが、それに相当する目標流量として、八斗島地点で17000m3/sという数値をあげている。八斗島(やったじま)は群馬県伊勢崎市にあり、利根川本流に高崎を通る烏川が合流したところのすぐ下流にあたる。

流量目標値の根拠は見当たらなかったが、日本学術会議の土木工学・建築学委員会の下に作られた「河川流出モデル・基本高水評価検討等分科会」の議論の結果をふまえているようだ。このブログ記事を書く途中で検索して気づいたのだが、学術会議が9月1日に「河川流出モデル・基本高水の検証に関する学術的な評価」(回答)を出している。これは今年1月13日に国土交通省河川局長からあった審議依頼への回答だそうだ。なお、9月28日の午前に公開説明会があるそうだ(上の分科会名のリンク先参照)。

整備局の資料にもどると、「過去の洪水実績など計画の前提となっているデータ等の点検」をしたとある。「データ等」の内容は「雨量データ及び流量データ」であり、「点検の結果必要な修正を反映した」そうだ。また「点検結果について別途インターネット等により公表する予定」だそうだ。

実際にどのような雨を与えられたときの流量を(ダムなどの条件を変えて)計算して目標値と比較したのかを知らないと、洪水調節機能の評価として適切かの評価のしようがないのだが、この本会議の資料をざっと見た限りでは見あたらなかった。幹事会の資料にあるのかもしれないがそこまでは見ていない。

流域内の雨の総量が同じでも、流量の時系列は、雨の時空間分布によって違ってくる。雨の分布は、一様でもないし全くランダムでもない。風上斜面に多いなどの規則性があるが、それがどこになるかは風向によって違い、そして風向は変化する。

極端な例を考えると、もし雨が吾妻川が合流するよりも上流の利根川本流域に集中したならば、吾妻川に作られる やんばダムは洪水調節の役にたたない。また、もし吾妻川流域に極端に集中してダムの貯水容量を越えてしまえばただ放流するしかなく、それ以前はともかく以後の洪水調節の役にたたない。やんばダムが洪水調節の役にたつのは、雨の分布がある範囲に含まれる場合なのだ。それが、利根川の洪水のおそれがある事例のうちどれだけを占めるのか、まずは過去の実績をもとに推定して示す必要があると思う。

もっとも、気候が変化しているので、過去の実績に基づく判断が適切でなくなるかもしれない。このことを水文学者の間では確率過程論の用語を使って「定常性」(stationarity)が成り立たないと言う(Milly, 2007)。気象学者は平年値(normals)の代表性がないと言うかもしれない。こうなると将来についてものを言うのはむずかしい。ただし、これから数十年について予想される気候変化はおもに全球規模の温暖化なので、集中した大雨の頻度はふえると予想できる。これは「雨量の数値がふえそうだ」、たとえば「これまで30年に一度の大雨だった雨量が、これからは10年に一度になるような変化が起きそうだ」(この数値は単なる例)という意味では広く認識されるようになったが[つまり調節を求められる洪水の規模は大きくなる]、それに加えて、時空間的に[予測困難などこかに]ますます集中しそうでもあるのだ[対策がうまくいく可能性は低くなる]。ただし、変化の具体的な数値については、シミュレーションで出せるもののしっかりした理論の根拠があるわけではないので、継続的に見なおしを続けることが必要だろう。

ところで、「参考資料4」(000044339.pdf)に複数の治水対策案が説明されているのだが、ダム案以外は伊勢崎よりも下流の河道掘削や遊水地追加設置などの対策ばかりのように見える。利根川の治水対策が問題になる最大の動機は東京に向かう江戸川の洪水のおそれだと思うので、関東地方整備局がこういう比較をすることはもっともなのだが、下流側の対策では伊勢崎市八斗島での流量に影響を与えることはできないはずだ。八斗島での流量とは別の目標を達成するための複数の方策を比較しているにちがいないのだが、それならば主の資料に八斗島の流量だけを目標として示すのは奇妙だ。

さらに言えば、洪水防止が反対を許されない絶対的目標のように語られることが多いが、それは正しいだろうか。東京の住民として、たとえば地下鉄が水没するような洪水はおそろしい。しかしそれはまれに起こることだ。そして、ダムがあろうと、それで防げると想定されたよりもさらに極端な大雨、あるいはダムの上流以外のところに集中した大雨があれば、洪水は起こる。ただし、土地の水没そのものは(過去の地下水くみあげあるいは地殻変動で地盤沈下してしまったところを例外とすれば)数日から数か月で終わるのではないだろうか。低地の、ある低い確率で起こる比較的短期間の水没を防ぐために、上流域のかなりの面積を常時水没させ、そのすぐ下流の区間を(次に述べる環境流量だけは確保されるとしても、自然状態に比べれば)常時渇水状態に置くことは、低地側の横暴ではないだろうか?

さて、「資料1」にもどって、順序を変えて述べるが、「流水の正常な機能の維持」は、2.4 m3/sの流量をダム直下流(吾妻渓谷)に確保することとなっている。ダムが水をせきとめることによって下流では川を流れる水がなくなることもよくあった。(大井川下流域の子どもだったわたしは知っている。わたしが歩いたあたりは流れはあるにはあったのだが、高い堤防から見えないこともあった。) 近ごろは日本の河川行政も環境流量を忘れないようにはなった。

しかし、「参考資料4」の対案を見ると、ダムがあればそこから放流すれば目標は必ず達成できるが、ダムがないと水を遠くから持ってこなければならないのでたいへんなのですよ、と言っているようだ。この目標流量は、ダムと関係ない自然の原因の渇水のときもがんばって確保しなければならないものなのだろうか。たぶん、流量の数値だけでなく、それが持続する期間の長さを合わせて考える必要があるだろう。また、ここの場合深刻なのは流量が少なくなることだろうか、水位が低くなることだろうか。水位の低いとき、水位と流量の関係は河床の微地形しだいで複雑なはずだ。目標流量を導くまでになんらかの生態学的検討がされたとは思うが、生態学者や現場の知をもつ人といっしょにさらに検討するべきだと思う。

利水」については新規利水として 22.209 m3/sという数値が「利水参画者の必要な開発量」としてあげられている。有効数字5けたもある数値とは思えないのだが、下流自治体が示した「必要な開発量」を積み上げたらこうなったらしい。要求をそのまま認めたとは限らず、「必要量の算出が妥当に行われているか検討」したというが、妥当性をどんな基準で判断したのだろうか。

水の利用量は、利用目的と利用地点に立ち入らないで総量だけ集計してもあまり意味がないと思う。農業用水は多くの部分が蒸発するが、一部は下流でもどってくる。工業用水や都市用水は、大部分が水として下流で(海になる場合もあるが)もどってくるが、多くの場合、望ましくないものの濃度が上がっている。利用地点と利用目的の組み合わせによっては、水はくりかえし利用できるはずだ。

また、もともとの水質が利用目的に適しているかという問題もある。吾妻川流域は温泉地帯で硫黄の濃度が高いことが知られている。自然状態でも流れるので下流ではそれが混ざった水を使うしかないのだが、過去の鉱山採掘などで溶解がふえているそうだ。支流の湯川の品木ダムで石灰を使った人工的中和が行なわれているのもそれの対策のはずだ。

もっとも、実際にはほとんどの「利水参画者」は、やんばダムから直接水をひくわけではなく、利根川下流の水の量のうちの相当分を問題にしているだけだから、水質としては合流後の本流のものだけを気にしているだろう。しかし吾妻川の水質は確かに問題なのだから、上流の市町村代表のいないところで話を進めてはいけないのではないか。

近代になって、経済の発展とともに天然資源の需要はふえつづけることが多い。「新規利水」が必要だというのもそういう感覚によっているのだと思う。しかし、近ごろは節水のくふうも進んでいる。たとえば中西(1994)の議論を読むと、関東の水需要はもうふえないはずだと思う。雨の少ない年に都市用水が不足することはあるが、農業水利権を部分的に制限すればすむはずだ。農林水産省と国土交通省の管轄にまたがるので、内閣レベルでの政治的意志決定が必要だが。

ただし、農業用水の需要がふえないという判断は、(日本の所得水準が他の農業生産国よりも高くなってしまったため、および都市的土地利用のための土地の需要があるために)日本の農業が衰退していることを前提としているかもしれない。自然条件としては農業に適している日本で、がんばって農業を復活させようとすると、都市用水の節水がもっと必要かもしれない。中水リサイクルあるいはトイレの非水洗化だろうか。

さらに、気候変化にそなえる必要もある。温暖化すれば雪が雨に変わる。雪どけ水で田植えをすることができなくなるかもしれない。しかし、冬の雨を田植え期までためるためにダムをつくれというのは、うしろ向きの考えだと思う。積雪が減って農地が使える季節が長くなることも考えて、新しい気候に適した作物や品種を選ぶのがよい適応策だと思う。

* * *

やんばダムの目的には水力発電は含まれていないようだ。落差も小さく、水量もあまり多くないので、発電には適さない条件なのだろう。

しかし一般論として、わたしは、(治水と利水のためのダム建設はもはや不要であることが多いと思うが)水力発電のためのダム建設は必要かもしれないと思っている。もはや化石燃料にも原子力にも大きく頼るべきではないが、近代文明の成果を捨てないためには電力は必要だ。太陽光と風力は間欠的なエネルギー源なので、持続性のあるエネルギー源が貴重だ。地熱は得られる場所が限られる。水力ははずせない。自然に得られる水力の利用のほかに、エネルギーをたくわえる手段としての揚水発電も必要だろう。揚水発電はこれまで、供給の変化を大きくできない原子力と需要の間の調節の役割をしてきたが、これからは供給の変化が大きすぎる風力・太陽光と需要との間の調節で必要になるのだ。しかし、水位の異なる貯水池を確保するためにはほぼ確実にダム建設が必要になる。ダムに伴う生態系や地域住民への影響の問題がつきまとう。これは善玉・悪玉で割り切れない社会的意思決定の課題なのだ。

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