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IPCCに関する日本学術会議主催のシンポジウム(出席後の覚え書き)

4月15日の記事で紹介した、IPCCに関する日本学術会議主催のシンポジウムに、聴衆のひとりとして参加した。

このシンポジウムの結果、参加者が何かの結論に合意した、ということは言えない。合意を得ることをねらった進行ではなかった。

「IPCC第4次報告書(AR4)の第2部会のアジアの章のヒマラヤの氷河の将来見通しに関する部分がまちがっていたことが確認された」とは言えるかもしれないが、それは1月20日にIPCC自体が声明を出した時点で確認ずみだったと言ってよい(このブログの1月25日2月10日の記事参照)。なお、もしこのことを「IPCC報告書はまちがっていることが確認された」と表現したら、論理的には正しいかもしれないが実際的に不当だと思う。ふつう、千ページのうち1ページ分がまちがっている本のことをそんなふうには言わない。「まちがっている箇所があったことが確認された」というのならばよいが。

IPCC AR4の主要な結論のひとつである「20世紀半ば以降に観測された世界平均気温の大部分は、人為起源の温室効果ガス濃度の観測された増加によってもたらされた可能性が非常に高い」(X)が、このシンポジウムで否定されたとは言えない。(否定しようとする発言はあったが、出席者の大多数がそれに賛同したとは感じられなかった。) しかし、Xが確認されたとも言いがたい。(なお、もしこの論点がまちがっていることが確認されたのならば「IPCC報告書がまちがっていることが確認された」と言ってよいだろう。他方、もしこの論点だけを確認して「IPCC報告書が正しいことが確認された」と言ったとしたら省略しすぎで不適当だと思う。) [この段落、2010-05-08, 2010-05-11補足改訂]

(1)
講演者・パネルメンバーの発表のうちでは、江守さんのものがいちばん明解だった。(次に述べるのはわたしなりにとらえなおしたものであり、江守さんの主張のとおりではないかもしれない。)

[IPCC報告書について]
少なくともヒマラヤの氷河の件では、執筆の際のルールが守られなかったり、査読の制度が有効に働かなかったということが、起きてしまった。このようなことが起きないようにIPCCのシステムを改善する必要がある。

ただし、訂正が遅れた背景を考えると、IPCCに強いプレッシャーがかかっていたのではないか。一方にはIPCCを尊重するあまり無謬神話をもつ人がいる。他方では、IPCCのあげ足とりをする機会をねらっている人がいる。影響がはかりしれないために訂正をためらったという事情があるのではないか。

[イーストアングリア大学の電子メール暴露をきっかけとして起きた議論]
科学者の態度に、情報を公開しようとしなかったり、派閥的にふるまったりした疑いがある。疑いが正当かどうかは未確認だが、今後の方向として公開性を高めることが望ましいことは確かだ。

ただし、科学者が批判者(いわゆる温暖化懐疑論者)に対してかたくなな態度をとったのには、批判者のうちに、善意かもしれないがあまりにしつこい情報公開要求をする人たちと、悪意で気候に関する科学をけなす集団とがいたという背景も考慮して、対策を考えなければならない。

(2)
大きい問題から言うと、米本さんの、国際政治の中での地球温暖化問題の位置づけがある。冷戦が終わって、核戦争に代わる世界的脅威として地球環境問題とくに温暖化問題が浮上したというのは、米本さんの1994年の著書[読書ノート]以来の議論だが、その位置づけが2009年ごろには少し変質してきているそうだ。ただしどのような変質なのかは聞けなかった。

参考になる前例としては、ヨーロッパの酸性雨原因物質の規制がある。冷戦中に政治的動機で(科学的裏づけがないままに)始まったのだが、1990年代に全面改訂されている。加盟国間の情報共有や手続きの透明性の確保が鍵なのだそうだ。

米本さんは、日本の状況のまずいところとして、IPCCの役割に関する社会科学的検討が欠けていることも指摘していた。ただし、わたしの知っているのは宗像(2007)だけだが、ほかに全くないということもないと思う。今回のシンポジウムでそのような議論が米本さん(および自然科学者によるしろうと談義)だけだったのは、学術会議の中で第3部(理工学)の課題と位置づけられてしまったからではないだろうか。第1部(人文社会)、第2部(生物)もいっしょにかかわった議論ならば違ってくるのではないか。

また米本さんは、日本としては、(IPCCや欧米の動きに対して受け身でいるのでなく) アジアの環境対策に関するテクノロジーアセスメントを率先してやったらどうか、という提言もしていた。

(3)
もうひとつの大きい問題として、地球科学の性格からくることがある。地球環境は、そのうち気候に限ったとしても、複雑なシステムであり、しかも実物による実験ができず、一度限りの歴史の観測事実と、数理モデルとに頼って研究するしかないという状況があり、実験室で実験できる分野に比べて不確かさが大きい。また、数日程度の時間スケールの天気現象ならばモデルがよく検証されるが、十年から百年の時間スケールの気候変化のモデルの検証は実際に起きるのを待てないというむずかしさもある。ここまでの認識は草野さんと安成さん(おそらく中島さん・江守さんも)とで一致していたと言ってよいと思う。

ただし、草野さんは、現在の気候の科学的予測能力が、政策の参考となるレベルに達していないと考えているようだ。また、科学者の問題追求が政治的動機によって偏る危険があるとし、地球科学の目標設定は科学者の純粋な自然探求として進めるべきだと言っていたように思われた。

草野さんは工学については何も言っていなかったと思うが、伊藤さんの、温暖化しても寒冷化しても後悔しないような、気候変動への適応能力を高める策をとるべきだ、という主張は、草野さんの理学に対する主張と両立はするだろう。

これに対して安成さんは、純粋科学の道をはずれても、政策決定者が必要とする知識を提供するべきだとする。

もちろん、この場合に、政治的な配慮が科学の内容に干渉しないような注意が必要だ。IPCCのしくみもそれを意図して作られたものではあるのだが、それで充分かどうかという問題はある。

草野さんのような態度をとらない科学の中身の側からの理由としては、江守さんが、質問への答えの中で、CO2がふえると気温が上がることは、モデルというよりも理論によって言えることだと言っていた。この意味は専門の違う人にはわかりにくいだろう。

わたしなりに考えると、複雑なシステムを単純なシステムで近似することは厳密には正しくないが、その近似がどの程度正しいかを検討することはできるということだ。同じ対象について、いろいろな複雑さの数値モデルを作ることができる。単純なモデルは理論の道具であり、モデルのシステムの中の因果関係をよく知ることができる。複雑なモデルは実験の道具であり、観測可能な量と対応づけることができる。CO2による温暖化の見通しに自信を持てるおもな理由は、単純な鉛直1次元モデルと複雑な3次元モデルの結果が基本的に一致していることだと思う。

(4)
IPCCの役割、構成、機能などについて、世の中には知られていないことがいろいろある。出席した人はだいぶ理解が進んだと思うが、講演者が別々に準備して急いで述べたので、あまりわかりやすくはなかった。関心のあるみなさんには近藤(2009)、宗像(2007)、高橋(2009)などの文献を見ることをお勧めしたい。

とくに大事なのは、IPCCの役割は、政策決定に有意義な(policy-relevant)知見をまとめることだが、政策を拘束する(policy-prescriptive)主張をしてはいけないことになっていることだと思う。このことについては誤解が多いので、機会あるごとにただしていかなければいけないようだ。

その具体例として、「温暖化を(全球平均地上気温の産業革命前からの偏差として) 2℃以内におさえる」という目標を設定しているのはIPCCではない。IPCC第2部会は、気温が(たとえば) 2℃上がったらどんな影響が現われるかの見通しを述べている。第3部会は、どのような対策をとれば温暖化を(たとえば) 2℃以内におさえることができるかの見通しを述べている。実際には2℃だけでなくいろいろな値について検討している。だれかが温暖化軽減の政策を述べる際に、2℃以内という数値を示すとすれば、その根拠づけや、その手段を考える材料として、IPCC報告書を参照するのは当然だ。その政策はIPCC報告書に依存しているとは言える。しかし、その政策自体がIPCC報告書に由来するわけではない。

(5)
まちがいが生じてしまった第2部会のアジアの章のReview Editorという役割をしていた西岡さんや、第1部会のReview Editorであった中島さんの話のなかで、編集の日程がきびしく、注意を行き届かせるのがむずかしいという現場の事情の指摘があった。部会間の連絡が少なかったことのほか、とくに第2部会では、対象別(水資源、農業、生態系、海岸など)の章と、地域別(アジアなど)の章が並行して進められ、対象別の章に専門家がいても地域別の章に充分関与してもらえなかったという問題もあった。

したがって、まちがいを防ぐことは、気をつければすむというものではない。当事者が忙しくなりすぎないように体制をたてなおす必要がある。

第1部会の科学的見通しを第2部会の影響評価に反映させるために、第1部会と第2部会の報告書の完成日程を1年くらいずらしたらどうかという意見もある。ところが、政策決定者から、3つの部会の報告書がそろって提供されることへの期待もあるそうだ。しかしこのままでは、完成日程はせいぜい半年の違いとなり、実質的に第1部会の最新の内容は第2部会に反映できないことになってしまう。ここからわたしの意見になるが、どの報告書も1年ごとに部分改訂することにし、全面改訂は1年ずらすことにしたらどうだろうか。なお、現在の第2部会の報告書のうちの対象別の部と地域別の部の間も1年ずらしたほうがよいと思う。地域別の部は、対象別の部の内容を地域別にまとめなおしたものから出発して、1年かけて、対象間の相互関係を考慮したり、詳しい情報を追加したりしてまとめるようにする。

また、第4次報告書への査読意見は3万件に達したそうだ。もちろん章ごとに分担するわけだが、これだけあると、目を通すことまではできても対応できないところがあっても無理もないと思う。ある人は第5次では倍の6万件くらいになると予想していたが、これは甘いだろう。第4次では査読者が公募されていることがあまり知られていなかった。次は知れわたるだろうから、応募者は桁違いにふえるだろう。残念なことだが、科学的根拠の薄い主張を書く人もふえるだろうし、実質的に同じものをたくさん送りつける集団も出てくるだろう。査読者応募の段階でたとえば6万件以内にしぼりこむ合理的な手続きを用意しておくか、査読意見がたとえば百万件来てもさばける体制を作っておく必要があるだろう。

IPCC報告書は回数を重ねるごとに扱うべき内容がふえていく傾向があるが、この点も、そろそろ逆転させるべきではないか。

西岡さんが、IPCC第2部会の役割は「気候安定化の目標設定」だと言っていた。西岡さんの意図はおそらくこれだけではなく次に述べられた適応策と並列のつもりだったのだと思う。しかし、わたしが思うには、気候変動への適応策は、世界のあらゆる場所で必要であり、しかも人為起源の温暖化だけでなく自然変動もまじめに考えなければならないので、IPCCの体制ではとても追いつかず、 WMOやUNEPの改組まで含めた新しい体制を考える必要があるのではないか。IPCCの「影響評価」は温暖化軽減策の必要性を評価することに目標をしぼり、世界全部を調べようと思わず、世界全体の影響を推算できるだけのサンプルについて質のよい情報を得ることに徹したほうがよいのではないか。(副産物として使える範囲で適応策にも役立てるのはもちろんよいことだが。)

文献

  • 近藤 洋輝, 2009: 地球温暖化予測の最前線。成山堂書店。
  • 宗像 慎太郎, 2007: 地球環境問題と科学的不確実性。現代思想, 2007年10月号(35巻12号), 178 - 186.
  • 高橋 潔, 2009: IPCC報告書とは? ココが知りたい地球温暖化 (国立環境研究所 地球環境研究センター編, 成山堂書店) Q11。ウェブ版は国立環境研究所サイト http://www.cger.nies.go.jp/ja/library/qa/14/14-2/qa_14-2-j.html