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人が天気に影響をあたえるという考えについて (天皇即位行事や「雨男」発言をきっかけに)

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

【この記事のうち自然科学的な知見の部分は気象学の専門家として書いています。人間社会に関する話題はしろうと考えで書いています。】

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2019年10月22日の天皇即位儀式のとき、晴れたこと、虹が出たことなどを、儀式あるいは天皇の行動とむすびつけた感想が聞かれた。

そういう発言をした人のうちには、日ごろ科学にもとづいた議論をよびかけている人たちがいた。わたしが直接読んだ発言は、文脈から推測すると、発言者が「天気が天皇と因果関係がある」と思っているようではなかった。偶然のめぐりあわせをおもしろがっているか、冗談として因果関係があるかのようにのべたのだ、と、わたしは受けとった。

しかし、「科学がだいじだと言うくせに、そんな迷信を信じているのか」と、科学観をうたがうような批判も聞かれた。世のなかには、ほんとうに因果関係があると思って言っていた人もいるらしい。そして、ネットメディアのうちでも、Twitterでは、ひとつの発言が(日本語文字ならば) 140字以内なので、その長さのうちで同じにみえる発言だと、読者には背景の区別がつかないし、背景のちがう発言者が retweet (複製配布)したり応答したりしてしまうこともおこりがちだ。だから、上記の批判が出てくるのも、ありがちなことだと思う。

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それに関連して、もし天皇に(意志によって)天気を変える能力があるのならば、多くの人に災害をもたらした雨をしずめることを優先せず、自分の行事につごうのよい天気をもたらしたのは、自己中心であり、国にとってよい役わりをはたしていないのではないか、というような議論もあった。ただし、この議論のぬしは、実際に天皇に天気を変える能力があるとは思っておらず、「天皇に天気を変える能力があり、しかも天皇は善意である」という論(実際にそう思っているとしても、おもしろがっているとしても)を批判するために持ち出したのだと思う。

(ただし、「天皇に天気を変える能力がある」という考えは、必ずしも、天皇自身の意志によって変えられる、ということを意味しない。意志に関係なく、その存在が影響をおよぼしてしまう、という構造もありうる。そのばあい、上の批判は直接にはあてはまらないと思う。)

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近代科学の知識を重視する人にとって、

  • だれであれ個人が行事に(主催者あるいは主賓だとしても)出席することが天気に影響をおよぼすはずがない。
  • だれであれ個人が天気に対して希望をもつことや希望をのべることが天気に影響をおよぼすはずがない。

のように考えることが、常識のようになっていると思う。ひとまずこれを「近代的認識」とよんでおく。

ところが、これを「人間が天気に影響をおよぼすはずがない」としてしまうと、(天気というよりも気候だが)「人間が化石燃料をもやしたことで地球温暖化がおこるはずがない」となる。これは、1970年代以後の科学的知見(専門家の多数の共通認識)からみて正しくない。人間はおおぜいいるので、人類全体としては、大気に対して無視できない影響をおよぼすことができるのだ。

それにくらべれば小規模だが、個人でやれることの範囲でも(社会からゆるされるかは別とすれば)、天気に影響をおよぼすことはある。大量の煙が出る野焼きをすれば、そのあたり数kmでの、太陽や空の見えかたはあきらかにかわるし、数km規模での雨のふりかたもかわるかもしれない(確実に雨をもたらすわけではないが)。

近代的認識は、「人間が天気に影響をおよぼすことはない」というのではなく、人間が、つぎにのべる古代的認識のような形で天気に影響をおよぼすことはない、ということにあたるのだ。

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つぎのような考えかたを、かりに「古代的認識」とよぶことにする。これは古代という時代にかぎるわけではない。現代の人も、近代科学的に考えないときは、このような考えかたをするかもしれない。逆に、古代にも、これとちがう考えもあっただろう。

天気は、人格をもった存在(かりに「天」とよぶ)にあやつられている、と思う。すると、

  • 「人がよいおこないをすれば、人にとってよい天気がもたらされ、悪いおこないをすれば、悪い天気がもたらされる」

とか、

  • 「人が天気について希望をのべれば、それがみたされる可能性が高まる」

とかいう考えに達することは、ありがちだ。

そして、天に影響をおよぼせるのは特定の人(仮にシャーマンとよぶ)だという考えもある。シャーマンの能力をだれがもつかは、いろいろな考えがありうる。

  • 各個人の生まれつきによる
  • 血すじによってつたえられる
  • 地位につくことによって得られる
  • 修練によって得られる

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日本の天皇には、3節の意味でのシャーマンのはたらきを期待されることがあった。しかし、ずっと古代はともかく、律令制などの国家体制ができてからは、天皇のいちばん主要な役割はシャーマンではなかったし、シャーマンの役割を期待される人がいつも天皇というわけではなかったと思う。

他方、明治憲法の時代には、天皇は国家権力の中心とされ、神格化もされた。それを経過したあとの日本では、天皇と「天」との特別な関係を(実際にあると思わなくても)話題にすることは、注意を必要とする。明治憲法体制で、戦争をしたとき、「日本軍は天皇の軍だから負けない」という論がきかれた。これは、「天皇に忠誠をちかうことによって兵士が勇敢な態度をとる」といった意味もあったと思うが、「「天」が天皇のみかたになるはずだ」という発想をふくんでいたばあいもあるだろう。それに対しては、近代的認識によって、明確に否定しておく必要があると思う。

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2019年10月末には、大臣が、自分は「雨男」だという発言をして、失言とされる、という事件もあった。

「雨男」「晴れ女」のたぐいは、なかまうちの冗談としては、よくつかわれる。ある個人が集団のなかである役わりをはたすことが、あまり頻繁ではないが、ときどきあるとする。そのようなできごとと、天気とのあいだに、相関が感じられることがある。少数の回数のできごとならば、相関があっても偶然であることが多いだろう。まったくの偶然ではないとしても、因果連鎖はその個人の行動から天気へむかうものではないことが多いだろう。それを、その個人の行動が天気をきめたかのように言うことが、冗談としておもしろいのだ。

そういうもの言いを、なかまうちでやっているぶんには悪くない。なかまうちの文脈をはなれて世界にひろまってしまうと、まずいことになる。(とくにTwitterは、なかまうちの発言のつもりだったことが全世界むけの発言と思われてしまうことがおきやすいしくみなので、この注意が必要だと思う。)

雨の被害を受けた人にも聞かれるところで、「雨男」の発言は、まずかった。発言者が大臣だと、さらにまずいが、大臣失格というほどではなく、陳謝でよいだろうと思う。

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2節でのべた近代的認識は、結論はよいと思うのだが、根拠をたてなおす必要があるかもしれない。

近代的認識をもつ人のすべてがつぎのように考えているわけではないと思うが、わたしは、近代的認識の基礎には、世界は運動方程式などの物理法則によって支配されているという世界観があると思う。運動方程式などの物理法則は時間に関する微分をふくんだ形になっている。ものごとが時間とともにどう変化していくかは、その方程式を積分することにあたる。

わたしは、子どものころ、少年少女むけに簡略にした天体力学の解説を読んで、そのような認識を身につけてしまった。大学で気象学を専攻して、数値天気予報モデルに出あって、その認識を強めた。

数値天気予報モデルは、世界でおこることのすべてではないが、地球大気のうち対流圏の水平規模100 km以上の現象の数日間の予測をもたらす能力をもっている。

その成功経験で得られた認識は、論理的には飛躍をふくむが、一般化してのべると(仮に時間ステップを1日として表現すると)、

  • 「きょうのここ(1地点)の状態の原因は、きのうの世界の状態の総体である。」

したがって

  • 「きょうのここの状態は、(影響の大小をひとまず度外視すれば)、あすの世界のあらゆるところの状態に影響をおよぼすのだ。」

というようなものである。

【影響がつたわる速さの問題はある。物理の相対論を前提とすると、光の速さでとどかないところは影響を受けない。さらに、気象に限定すれば、音波の速さでとどかないところは事実上影響を受けないとみてよいだろう。しかし、空間規模に対してじゅうぶんな時間をとれば、影響は世界のうち対象とする領域(気象ならば地球大気)の全体におよぶ。】

もしこれが正しいならば、人がからだを動かすことも、世界の物体の動きのひとつの小部分だから、原理的には、

  • 「個人の動作は、天気に(わずかながら)影響をおよぼす」

というのが正しいはずだ。

しかも、天気には、E. N. Lorenzの意味でのカオス性がある。(因果関係が非線形である、つまり結果が原因に比例するとはかぎらない、ということから)大気の状態のわずかなちがいが、時間を追っていくと、大きなちがいになりうる。だから、個人の動作が天気におよぼす影響は「わずか」ではすまないかもしれない。

しかし、カオス性があるということは、時間を追っていくと、ひとつひとつの因果関係をたどることが事実上できなくなる、ということでもある。

現実にできごとX (たとえば即位式典)があったのならば、その後の現実の天気の経過はのべられるが、もし X がなかった場合の天気の経過がどうなるべきであるかを、大気がしたがう物理法則にもとづいて、じゅうぶん精密にのべることはできない。だから、X と天気との因果関係について、証拠にもとづいた議論をすることができない。

このようなわけで、人間の行動と天気との連関があっても、ノイズにうもれてしまうので、偶然とみなすのが現実的なのだ、と思う。(野焼きの煙の場合や、二酸化炭素による温暖化の場合など、因果関係の素過程となりうることがらを指摘できる場合は別である。)

- 7 (補足的論点であって、まとめではない) -
もし人間の行動が天気に影響をおよぼしうるとしても、それはかならずしも、人間の意志によって天気を変えられるということではない。

「人には自由意志があるか」という哲学的難問がある。人が自分のからだをどちらむきに動かすか、Yesと言うかNoと言うかは、自分の意志によって変えられる、と、本人は思っているだろう。しかし、世界のものごとはすべて因果関係で決まっているという立場からは、自由意志の結果のように思われることも、必然だったのだ、とも考えられる。(量子論的不確定性をふくめると話は複雑になるが、かならずしも自由意志の肯定にはならない。)

もしすべては必然だとすれば、人間の意志が天気に影響をおよぼすか、といった議論は無意味になるのだろう。

しかし、人の主観としては、自由意志はないのだと納得することはむずかしい。