近ごろ、日本の政策、とくにエネルギー政策に関する議論は、たがいにあいいれない主張の間で分裂しているように見える。実際は複雑だがあえて単純化すると、二つのグループの人々がお互いに相手の主張を「非現実的だ」と言っているようだ。もちろんその意味は同じではない。
- 一方は、今の社会は産業革命以来発達してきた生産・消費のしくみを前提としているので、このしくみをこわすのは非現実的だとする。また、このしくみの機能が災害のとき一時的に低下するのはやむをえないとしても、早く復旧して、平時は国民に節約を強いることがないようにするのが政治の役割だと考える。
- 他方は、(ひとまず理念的に述べれば) 今の生産・消費のしくみを今後何十年も続けることが、天然資源の枯渇や環境の悪化によって非現実的なので、それを持続可能に変えていくことこそ現実的な政策だとする。(実際には、環境悪化の要因のうちで特定のものたとえば放射性物質にこだわって、それを発生するような生産・消費活動をすぐに止めるべきだとする主張がされることが多い。)
このどちらも、今ある技術を前提としているようだ。第3のものとして、今後の技術の発達に期待する議論があるが、そのうちには可能なことと夢の区別がついていないのではないかと思われるものもある。技術に関しては、次のように考える必要があると思う。
- まだない技術はあてになるものではない。1つのシナリオとして、今ある技術だけで対応しなければならない場合は考えておくべきだ。
- しかし、人々は困難に直面すればくふうを考えるのがふつうなので、なんらかの新技術が開発されるというシナリオのほうがむしろ現実的だ。ただしその詳しい予測は原理的にできない。
- まず、物理法則あるいは天然資源量の限界から、不可能とみなしたほうがよいことがらを明確にして、それに期待する議論は政策論から除外したほうがよい。
- さらに、技術的課題のうち、特定の経路の成功に決定的に依存するものや、開発段階ですでに大量の資源を投入する必要のあるものは、社会全体として余裕がなければ見送るべきだろう。複数のグループの人々が複数の経路から同時に取り組め、その結果として社会の持続性を高めるような課題を政策的に推進するべきだろう。
技術開発につとめたとしても、おそらく、産業革命以来発達してきた文明の成果をみんな、世界の人々みんなが利用できるようにすることはできないだろうと思う。何かをあきらめる必要があるのだ。
これは産業革命以前にもどるという意味ではない。昔のような病気にかかりやすい世の中にもどるのはごめんだという欲求はもっともだと思う。また、人口がふえてしまっているので、みんなが昔のような生活をすること自体が不可能になってしまっている。
これからの人間社会にとって、何が必需サービスであり、何がぜいたくなのか。今いない将来の人に対しては押しつけになってしまうという問題はあるが、なるべくやりなおしの余地を残しながら、ひとまずしわけを始める必要があるのではないかと思う。