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算数教育での かけざん順序固定に反対、それに関連して考えること

【まだ書きかえます。いつどこを書きかえたかを かならずしも明示しません。】

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算数の「かけざん順序」問題が、たびたび話題になる。これはおよそ、つぎのような問題だ。

小学校の算数を想定して、かけざんを応用してこたえられる問題として、たとえばつぎのようなものを考える。

63円のはがきを 5枚買った。合計はいくらか。 . . . (1)

これを、つぎのような式をたてて計算することができると教えられたとする。そのとおりにこたえれば正解となる。

63 × 5 ... (2)

そのばあいに、つぎの式をたてたらどうか。

5 × 63 ... (3)

ここで、(3) は まちがいだとするような発想を「順序固定主義」、(3) も正解だとするような発想を「順序自由主義」ということにしよう。

わたしの意見は「順序自由主義」のほうだ。そのことは、このブログのつぎにあげる記事でものべている。

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(3) をまちがいだとする意見のうちには、交換法則をならうまえにつかってはいけない、という教育方針によるものもある。わたしは、そのような教育方針はまずいと思う。ならっていないことがらであっても、客観的にただしいことならば、明示的につかわないように指示されないかぎり、つかってもよいとするべきだと思う。しかし、交換法則をおしえたあとで実は (3) も正しいのだと明示的に修正することを組みこんだ教育方針ならば、一時的に制限するのはみとめてもよいと思う。このような態度は、この記事の本すじからはずすことにする。

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また、金額の計算の問題にかぎって、「単価 × 個数」の順に書くのが正しく「個数 × 単価」の順に書くのはまちがいだという認識にもとづいて、(3) はまちがいだとする意見もあるようだ。

  • [注] ここで「個数」としたところは「数量」と書かれることが多いが、わたしのつかいたい「数量」ということばの意味とちがうので、さけた。

わたしはこの認識は正しくないと思う。個別の会社や役所などの書類のかきかたのルールとしては順序を固定することがよくあるが、日本語圏のうちだけでも「単価, 個数」の順と「個数, 単価」の順の両方を見かける。さらに、言語がちがえばどちらをさきに書くかの習慣がちがうことがおおい。

しかし、金額の計算にかぎって順序を固定するならば、かけざんという演算の理解にはおおきくひびかないだろう。このような態度も、この記事の本すじからはずすことにする。

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順序固定論のうちで、順序自由論者からみてこまったものだと思うのは、かけざんとはこういうものであるという基礎づけにもとづいて、(3) をまちがいだとする主張だ。

その基礎づけの代表的なものを、わたしのことばで表現しなおしてみる。

「かけざんとは、『ひとつあたり いくらのものを、いくつあつめると、全部でいくらになるか』という問題である。」 . . . (4)

  • [注] 算数教育でよくつかわれる表現は「ひとつぶん」と「いくつぶん」をふくむものらしいが、わたしにはそれはとてもわかりにくいので、「いくつ」と「いくら」をつかいわけることにした。ここの「いくら」は、(1) の例のばあいは金額だが、一般に金額にかぎらない数をさしている。

小学校の算数ではつかわない表現だが、変数を文字であらわせばつぎのようにも書ける。

「『A × B = C 』とは、『ひとつあたり A のものを B 個あつめると、全部で C になる。』 という意味である。」 . . . (5)

わたしは (5) は限定しすぎた主張だと思う。つぎの (6) ならばよい。

「『ひとつあたり A のものを B 個あつめると、全部で C になる。』 ということがらを、『A × B = C 』という式であらわすことができる。」 . . . (6)

そして、つぎの (7) も正しいと思う。

「『B個のひとつあたり A のものをあつめると、全部で C になる。』 ということがらを、『B × A = C 』という式であらわすことができる。」 . . . (7)

「(4) がかけざんの本質である」という考えにもとづいて、(1) の問題について (2) は正しいが (3) はまちがいだと判断する人は、(7) のような順序にのべることは (計算結果は正しいにもかかわらず) 「かけざんの本質に反する」と考えているようだ。わたしにはその理屈が理解できないのだが。

わたしは、(4) も限定しすぎた主張であり、つぎのようにゆるめるべきだと思う。

「『ひとつあたり いくらのものを、いくつあつめると、全部でいくらになるか』という問題は、かけざんで表現できる多様な問題のうちのひとつの部類である。」 . . . (8)

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数量に単位をつけてみよう。金額には「円」をつける。物理量ではないが、貨幣価値という次元をもった量だといえる。はがきの枚数、一般化して、ものの個数は、「個」「枚」「本」などの助数詞をつけず、無次元量としてあつかうことにする。

63円 × 5 = 315円 . . . (9a)
5 × 63円 = 315円 . . . (9b)

は、どちらも正しい。

5円 × 63 = 315円 . . . (10)

は、結果は正しいし、つかわれた演算は適切なのだが、(1) の問題状況の表現としては、まちがいだといえるだろう。算数という科目でおしえられることを、数学的知見と、〈数学的知見と現実世界 (または現実世界とにた性質をもった仮想世界) との対応のつけかた〉とにわければ、前者の意味では正しいが、後者の意味でまずいのだ。

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かけざん順序自由論を主張する人のうちには、つぎのような理屈をのべる人がおおいようだ。(かぎかっこをつけたが直接の引用ではなく、わたしがくみたてなおしたものである。)

「算数は数学の初歩をおしえる教科だ。そして、数学で かけざん では交換法則がなりたつので、それをつかうときは順序は自由だ。かけざんの順序を固定するという、数学の知見とちがった、小学校の算数のうちだけでの約束をおしえるべきではない。」 . . . (11)

わたしは、(11) のうち、2つめと 3つめの文には賛成なのだが、最初の文については、ちがう考えをもっている。

上にのべたように、算数の教育内容は、数学的知見と同じくらい、〈数学的知見と現実世界との対応のつけかた〉に重点があると思う。

【そして、中学以上の「数学」という科目が数学的知見をおしえることに集中してしまうので、〈数学的知見と現実世界との対応のつけかた〉の教育は、理科や経済などの科目のかたすみでおこなわれてはいるが、じゅうぶんではないと思う。】

ただし、数学的知見のほうは、文化圏によるちがいや個人によるちがいがとても小さいので「正解」をまぎれなくしめすことができることがおおいが、現実世界との対応づけのほうは、文化圏や個人によるちがいが大きく「正解」がかならずしもさだまらないものをふくんでいると思う。それでも、実際に応用経験をつむためには、なんらかの対応づけを実際にやってみなければならない。それは対応づけのしかたの一例であり かならずしも普遍的ではない、というふくみをもっておしえるべきなのだと思う。

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そこでおしえられるべき かけざんという数学的知見とはどんなものだろうか。

それは、明示的な定義からみちびかれたものではないと思う。

たくさんの種類の、あきらかに同じ構造ではない状況を、数をあてはめてみると、実は同じ演算であった、というふうに、経験から抽象された概念だと思う。そこにたどりつくまでの経験が人によってちがっていても、抽象化された数学的表現が同じであるかぎり、同じ知見を共有しているといえるのだ。

かけざんは、(6) のような状況も、(7) のような状況もあらわすことができる。

また、長方形の 2辺の長さから面積をもとめる問題にもつかうことができる。

長方形の面積は、「縦 × 横」とおぼえるかもしれない。しかし、長方形は平行四辺形でもあるから、「底辺 × 高さ」でも計算できるはずだ。そして、すなおに見れば、平行四辺形としての底辺は長方形としての「横」であり、平行四辺形としての高さは長方形としての「縦」だから、「横 × 縦」で計算することがまちがいであるはずがない。

また、むきをかえて見れば (長方形を、それがおかれた平面に垂直な軸のまわりに回転すれば) 長方形の「縦」と「横」はいれかわってしまうが、面積は変わらないはずだ。

長方形の面積を計算する演算は、たしかに順序自由だ。それは「かけざん」という演算だ。そして、単価と個数から合計額を計算する演算も「かけざん」だ。したがって、単価と個数から合計額を計算する演算も、順序自由なのだ。

長方形の面積からのぼっても、単価と個数からのぼっても、「かけざん」という高みにあがれば、見とおしがひらける。そこから、どちらにおりてもよい。

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ここでいう「高み」とは、現実世界の課題よりも抽象的な知見をさしている。ただしこの「抽象的」というのは、(すくなくとも、初等的なかけざんについては) 抽象的な定義や公理からはじめて論理によってくみたてていくことではない。

大学の数学の学生に考えさせる課題としては、(4) をもっと厳密にしたかけざんの定義と、あらかじめ真であると仮定したいくつかの公理から出発して、論理をつみあげて、交換法則を定理として証明する、というものがありうるだろう。そのような状況では、A × B と B × A とはもともと意味がちがっており、交換法則が証明されるまでは明確に区別しなければいけない、ということになるだろう。

しかし、それは子どもが かけざん をみにつける過程とはあきらかにちがっている。そして、おそらく数学者も、整数や実数のかけざんについては、経験からの抽象化によって認識していて、上にのべたような公理的な構成は、経験からすでに知っていることがらをつかって公理的な方法を実演するという位置づけだろうと思う。

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わたしは、子どものころ、かけざんについての知識をどのように みにつけたのか、思いだせない。すくなくとも、(4) のような定義をならったおぼえはない。

いま記憶をたどってみると、わたしにとってのかけざんは、まず「九九」の表だった。正方形の縦と横のそれぞれの辺に1から9までが書いてあり、内部のますめに結果の数が書いてあった。わたしは、数値をながめているうちに、同じ数値があることに気づき、それが対角線でおりかえした位置にあることに気づいて、(あとで知った表現をつかえば) 交換法則を経験的に知ったのだった。

それから、かけざんが九九の表の範囲で終わるものでない、という認識をえることが必要だったはずだ。わたしは、九九を「十十百」まで拡張することができることを (自分で思いついたのか、親からならったのかはわすれたが) 認識して、さらに大きな数のかけざんもできることを概括的に知ったのだと思う。

これがわたしの知識の発達のただしい記述だとすれば、わたしがかけざんがどんなものかを知ったとき、交換法則はそれと一体であって、まずかけざんを知ってからその交換可能性を知ったわけではない。

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数学の方法として、公理と定義から出発して、定理を証明していく、というものがある。しかし、自然科学の知識はそのような構造をしていない。むしろ、いくつかの基本的知見がおたがいにささえあっている。

公理的方法は、アレクサンドリアのギリシャ語話者のエウクレイデス (ユークリッド) 以来、西洋の数学では標準的とされてきた。19世紀の哲学者たちによって、エウクレイデスの議論はじゅうぶん厳密でないとされて、もっと厳密な証明にもとづく数学がつくられてきた。しかし、他の文化圏ではかならずしもそうではなかった。たとえば日本では和算が発達し、そのなかではいろいろな演繹や帰納がおこなわれたが、公理からくみたてるという考えはなかったそうだ。

現代の数学には、公理的方法によってくみたてられた部分もあるが、数学全体がそのようになっているわけではなく、いくつかの基本的知見がおたがいにささえあっているものだと思う。

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「数学的知見と現実世界との対応のつけかた」の重要な部分として、「量」あるいは「単位のついた数」のあつかいがある。強調していえば「数学と並列に「量学」があるべきであり、算数は数学の初歩と同等に量学の初歩をふくんでおり、中学・高校・大学にも量学を意識的にふくむ科目があるべきだ」と思っている。これについて、わたしはすでに別の記事でのべたことがあるが、今後も考えつづけ、おりにふれて書いていきたいと思っている。