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日本学術会議は軍事研究を禁止せよと言ったのか?

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表題に疑問文を書いた趣旨は、この問いには ひとことではこたえられない、というものだ。

2020年10月、日本学術会議の会員候補者のうち6人を総理大臣が任命しなかったことをきっかけに、学術会議についてのいろいろな議論があった。

そのなかに、「学術会議は軍事研究を禁止せよと言った」というのがあった。そういう発言のわりあい多くが、その学術会議のおこないが、日本の学術にとってまずい結果をもたらした、という主張につながっていた。しかし、逆に、学術会議はよくやった、という主張をともなっていたものも見かけた。

それは、学術会議が2017年3月に出したつぎの「声明」についての論評にちがいない。

これは、学術会議の中につくられた「安全保障と学術に関する検討委員会」の報告にもとづいて、学術会議の幹事会の判断で出されたものである。検討委員会の報告は、つぎのものである。(報告のほうが発表日付があとになっているが、声明は報告の案にもとづいていて、その内容は発表されたものとほぼ同じだろう。)

わたしは「声明」をざっと読み、その終わり近くの部分の論点は、「軍事研究を禁止せよ」と要約できるものではないと思った。それで、ツイッターに「「学術会議が「軍事研究を禁止せよ」と言っている 」という誤解...」と書いてしまった。そのツイートは、わたしのものにしてはめずらしく多数リツイートされて、ひろまってしまった。

そのうちに、わたしのツイートへのコメント(技術的にはリプライ reply)として、「声明」のはじめの部分をすなおに読めば「軍事研究を禁止せよ」にあたることが書かれている、という指摘があった。それももっともだと思った。わたしは自分のツイートへのリプライの形で補足情報を出したが、そちらはさきほどのツイートほどはひろまらなかった。いつもながら、情報媒体としてのツイッターには、修正情報がつたわりにくいという欠点があると思う。

「軍事研究」ということばがさすもののひろがりも、人によって、また文脈によってちがう。そのうちどれをとるかによって、学術会議が「軍事研究を禁止せよ」と言ったとも、言わなかったともいえる。みじかい字数 (たとえばツイッターの1つのツイートの140字) で説明するのはとてもむずかしい。

また、学術会議の報告は、おたがいに意見や価値観のちがう複数の委員の考えをまとめたものなので、部分ごとにちがう背景を考えながら読む必要があることもある。「声明」はすじが一貫しているべきではあるが、2017年の声明のばあいは、部分にわけて読む必要があると思う。

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2017年の声明では、どんなことを言っているだろうか。

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表題には「軍事的安全保障研究」ということばがつかわれているが、それが何をさすかのしっかりした説明はない。本文第3段落にでてくる 防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」がそれにふくまれることはたぶんたしかだが、そのほかに何をふくむのかは明確でない。

「軍事的安全保障研究」を「軍事研究」と言いかえることが適切かどうかも疑問ではあるが、わたしの常識的判断では、この言いかえはよいだろうと思う。ただし、その言いかえは、「軍事研究」を、たとえばむかしの軍事をあつかう歴史学の研究などもふくむ広い意味での「軍事をあつかう研究」をさすものとすることとは両立しない。

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2017年の声明の第1段落で、日本学術会議が1950年と1967年にそれぞれ出した声明の「戦争を目的とする科学の研究は絶対に行わない」という主張を確認し、それを「継承する」と言っている。もし「戦争を目的とする科学の研究」を「軍事研究」と言いかえてよいとすれば、「日本学術会議は2017年に「軍事研究を禁止せよ」と言った」という文は正しいことになるだろう。

(1967年の声明は、表題はこのように「軍事目的の」ということばがつかわれているが、本文にはその表現はなく、本文最後の文は「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わないという決意を表明する。」となっている。)

ただし、どの声明にも、「戦争を目的とする科学の研究」がどんなものをさすのか (何がふくまれ、何はふくまれないのか) の説明はない。2017年の委員会報告でも、1950年と1967年の声明にふれてそれを継承するとは言っているが、「戦争を目的とする科学の研究」の内容にはふみこんでいない。第6回と第49回の総会のくわしい議事録があれば、そこでどんな議論があったかはわかるかもしれないが、学術会議ウェブサイトから公開されている資料のうちで総会速記録があるのは2005年10月以後のものだ。

したがって、もし「日本学術会議は「軍事研究を禁止せよ」と言った」と言えるとしても、その「軍事研究」の意味は、よくわからないままになる。

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声明の第3段落では、防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」(2015年度発足) がとりあげられ、「問題が多い」と論評されている。この制度に対する否定的評価だと言えると思うが、研究者に対してこの制度にかかわってはいけないと言っているわけではない。

つづいて、「学術の健全な発展という見地から、むしろ必要なのは、科学者の研究の自主性・自律性、研究成果の公開性が尊重される民生分野の研究資金の一層の充実である。」と言っている。これは、科学的助言をする機関としての学術会議から、日本政府全体へ、あるいは民間の研究資金提供機関をふくむ日本全体への、助言的提言である。

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それにつづく声明の第4段落には、つぎのように書かれている。

研究成果は、時に科学者の意図を離れて軍事目的に転用され、攻撃的な目的のためにも使用されうるため、まずは研究の入り口で研究資金の出所等に関する慎重な判断が求められる。大学等の各研究機関は、施設・情報・知的財産等の管理責任を有し、国内外に開かれた自由な研究・教育環境を維持する責任を負うことから、軍事的安全保障研究と見なされる可能性のある研究について、その適切性を目的、方法、応用の妥当性の観点から技術的・倫理的に審査する制度を設けるべきである。学協会等において、それぞれの学術分野の性格に応じて、ガイドライン等を設定することも求められる。

議論の対象が、防衛装備庁の制度なのか、もっと広い範囲のものをさすのかは、文章を読んだだけではよくわからない。わたしの推測では、防衛装備庁の制度もふくむが、それよりまえからあったアメリカ軍の機関から研究資金を受けることなどもふくめた、軍や国防当局からの研究資金を受けとることをさしていると思う。【1967年の声明の中でも背景としてアメリカ軍からの研究資金の話題が出てくる。学術会議と直接の関係はないが、2015年のネット上の議論でも、ある研究者がアメリカ軍の研究費を受け取ったこと、別の研究者は受け取りたかったが所属機関の内規で応募できなかったので退職して民間企業に移ったこと、などが話題になっていた ([2015-01-18 軍事研究との距離])。】

この段落で学術会議は、大学などの研究機関に対して、それぞれ、「軍事的安全保障研究と見なされる可能性のある研究について、その適切性を技術的・倫理的に審査する制度を設ける」ことを求めている。また、学会に対して、それぞれの学術分野での、(軍事的安全保障研究と見なされる可能性のある研究についての適切性の、と読むべきだろう) のガイドラインを設定することを求めている。

ここで、学術会議は、「軍事的安全保障研究と見なされる可能性のある研究」を禁止することを求めていない。それで、「学術会議は軍事研究を禁止せよとは言っていない」と言ってしまったのだが、あとで考えてみると、わたしのその判断はあまりたしかでない。それぞれの研究機関の審査の結果「不適切」と判断されたものについては、禁止することを求めていると言える。もし、研究機関の審査で「軍事的安全保障研究」だとみなされれば 即 「不適切」だとみなされるのならば、そして、「軍事研究」が「軍事的安全保障研究」をさすとすれば、「学術会議は軍事研究を禁止せよと言った」と言える。わたしはいまでも、この「もし...」は なりたっていないと思うのだが、それを自信をもって主張するわけではない。

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学術会議の声明は、強制力をもたない。しかし、学術会議は、国内の多くの機関に対して、指針 (ガイドライン) を出すことを期待される機関である。「指針」や「ガイドライン」と銘打たれていればもちろんだが、「声明」でも、それに近い機能をもつだろう。

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しかし、学術会議の声明を指針とみなしてしたがうとしても、「軍事的安全保障研究と見なされる可能性のある研究」を審査する制度をどのようにつくるかは、機関ごとにちがってくるのは当然だ。横ならびにする必要はないのだと思う。

審査する制度をつくるのには費用がかかる。とくに、そのような研究に応募したい人と利害関係がない人に、審査のための時間をさいてもらわなければいけない。とくに、国際法、知的財産権制度、軍事組織の慣習、研究倫理などに関する知識がある人に時間をさいてもらう必要があるだろう。機関として、そのような費用をはらう余裕がないばあいには、所属の研究者がそのような研究に応募してはいけないというルールをつくることになるのも、無理もないと思う。

- 3C -
このたびとくに話題になったのは、北海道大学の教員が、「安全保障技術研究推進制度」による研究に参加しようとしたら、北海道大学の方針によってはばまれた、ということだった。北海道大学当局が根拠として学術会議の声明をあげたから、「学術会議によってはばまれた」という評判が立った。

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これで思いだすのは、北海道大学の教員だった 中谷 宇吉郎 が、1954年ごろに、アメリカ軍から研究費を受けて北海道大学で研究しようとしたら、北海道大学からはばまれたことだ。(この件についてはもっとくわしくしらべたいと思っているが、とりあえず、杉山 2016 の2.2節による。)

北海道大学は、軍(のたぐい)の研究費を受け取らないということで、首尾一貫しているように感じる。

ただし、中谷 宇吉郎 は、北海道大学を主の所属としたまま、運輸省の研究所でアメリカ軍の研究費を受けて研究することができた。そのことを北海道大学はとがめなかった。杉山さんのこの件についての記述をみると、杉山さんは、これは首尾一貫しない、まずい対応だと考えているようだ。

わたしは、軍事研究について同じ価値観から出発しても、大学と国立研究所との事情のちがいによって、対応がわかれることはあって当然だと思う。大学は学生を教育する。いろいろな国からの留学生が、(本国政府の監督下ではなく) 個人の資格でやってくる。軍関係の研究ではほかの研究よりもきびしい秘密保持や身もと保証の条件がつくことが多い。留学生をそれに近づけないようにしながら教員が研究に従事するのは、不可能ではないとしても、大学本来の機能を低下させるおそれがある。国立研究所にいるのは職員だ。かつての国の直轄だった時代ならば、外国人がいたとしても、永住者と、外国の機関との協定にもとづいた人事交流で滞在している人にかぎられただろう。こちらのほうが、軍関係の研究とつじつまをあわせやすいだろう。(いまは、国立研究開発法人でも、外国人を本国の機関からの派遣でなく直接 研究員として雇うことがあるから、いくらか大学の状況に近づいてはいるが、それでも、学生をかかえた組織とは事情がちがうと思う。)

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杉山さんは2016年の文章 (講演記録) の第4節で、軍事研究とそうでないもののあいだに線をひくことはむずかしい、と言っている。そして、資金の出どころで区別する態度には、どちらかというと否定的だ。

しかし、わたしは、むずかしい問題をいつまでも未解決のままにできないなかで、当面の対応として、資金の出どころで区別するのが、現実的だと思う。

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3C節で話題にした、北海道大学の教員が「安全保障技術研究推進制度」をつかおうとした研究は、船舶の技術に関するもので、成果が出れば、軍事艦艇にかぎらず、船による輸送の燃費改善につながるものとして期待されていたのだそうだ (わたしは まだ、くわしいことをしらべていない)。

制度のうえでは応募する資格がありながら、大学の方針によってはばまれたことは、不運であり、気の毒だとは思う。

しかし、巨視的に、日本政府への助言者のたちばで言うのならば、日本の国が民間の船の燃費改善になりそうな研究を推進したいならば、防衛省ではなく、船舶技術ととらえるならば国土交通省 (旧 運輸省)、省エネルギー技術ととらえるならば資源エネルギー庁あたりが、研究開発予算をつけて、研究者をつのるべきなのだと思う。

その成果が、自衛艦に利用されても (自衛艦の存在自体はよいとするならば) よいと思う。ただし、成果が論文なり特許なりの形で公開されてからにしてほしい。秘密のまま防衛技術に利用されるべきではないと思う。

このような主張が、いまの日本の予算編成のなかでとおりにくいことはわかっている。それは、たいていのことについては「小さい政府」主義者であって、研究開発予算の増額などぜいたくだと論じながら、防衛予算だけは例外あつかいする人が、影響力をもっているからだろう。そのために、本来は民生目的の研究が防衛目的を偽装するようなひずみがおきていると思う。

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わたしのツイートを、単純にリツイートしてつたえてくれた人が、どういう意見をもっているかはわからないけれども、おそらく、その多くは、そのツイートに書かれたかぎりでのわたしの意見に、ある程度は賛同したのだと思う。

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しかし、わたしのツイートに対して、リプライや引用ツイートの形でつけられたコメントは、「学術会議が軍事研究を禁止せよと言った」と認識したうえで、学術会議のそのような働きは有害だったという論調のものが多かった。わたしは、はじめはそれに応答しようとしたのだが、疲れてしまって、応答するのをやめた。

ひとつには、ツイートのリプライのうちには、もとの発言者にむけたものよりもむしろ、きっかけとのリンクをしめしながら自分の意見をしめすものが多いと感じるからだ。自分の意見をしめすうちにも、ひろく世界にむけたもの、自分のなかまうちにむけたもの、ひとりごとのようなものがある。

対話をしてみて、認識のギャップがちぢまっていくばあいには、対話をしたかいがあったと思った。ところが、対話をすすめていくと、あいてがますますわたしを敵あつかいしたことばをぶつけてくるばあいには、いやになる。(そういう発言は、みかけ上は こちらにむけられていても、実は、発言者が みかた とみなす人びとの共感を期待してされているのだろうと思う。)

もうひとつには、「軍事研究禁止が有害だった」という主張は同様でも、背景にある価値判断が一様ではなく、それをまぜて対応することはできないが、判別するのもむずかしいと感じたからだ。「(a) 日本国は、外国の軍事的脅威に対抗するために、軍事研究を国策として推進する必要がある」という意見、「(b) 軍事研究に従事するのをさまたげるのは学問の自由の侵害である」という意見、「(c)「安全保障技術研究推進制度」を利用しようとした(ある具体的な)研究課題は実質的に軍事研究ではない。それを軍事研究とみなしてさまたげるのはよくない」という意見がある。((c)の「よくない」のところは、さらに、「(c1) 学問の自由の侵害である」と、「(c2) 日本の財政支出のへたな使いかたである」にわかれる。) このうち一つを主張する人は、かならずしもほかのものに賛同しないだろう。それが、ツイートへのリプライや引用ツイートという形で出てくると、とても見わけにくいことに気づいた。

- 4C -
わたしは、学問の自由は重要だと思っている。しかし、それは、研究者が、どんな主題・材料・方法の研究でも無制限にできる自由ではないと思う。ひとつには研究の過程でおこること、もうひとつには研究の成果が利用される過程でおこることについての、倫理的考慮によって、制限されることはありうるのだ。さらに、とくに国が資金を出す安全保障関係の研究ならば、国益に関する考慮によって制限されることもあるだろう。ただし、あらかじめ、たくさんの研究課題について包括的におこりうる事態を想定して制限のしかたをきめようとすると、きびしすぎる制限になってしまうと思う。機関ごと・研究課題ごとに、おこりうる事態を考えてそれへの対策を考えることが必要で、その結果、機関ごと・研究課題ごとの不公平が生じることはやむをえないのだと思う。

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「軍事研究」ということばは、とりようによっては、「軍事を対象とする研究」をさすものであり、たとえば、むかしの軍事についての歴史学の研究をもふくむ、とも考えられる。

日本学術会議は、当初もいまも、この意味での「軍事研究」全体を、禁止しようとしたり、機関ごとに審査制度をつくる必要があるとしたりしたことは、ないはずだ。

- 5A -
歴史学のうちいくつかの分野で、第二次世界大戦後のある時期に、軍事を主題とする研究をさけるような風潮があったらしい。

その原因として、日本学術会議の「戦争を目的とする研究」についての声明がきいているという理屈は、たぶん、なりたたないと思う。(学術会議の声明と、歴史学の一部の風潮とに、共通の背景要因がある、ということならば、ありうると思うが。)

- 5B -
日本近代史のうちで軍事を対象とする研究がすくなかったことについては、防衛省が資料をかかえこんでいて資料を利用できる人がすくなかった、という要因が指摘されていたのを見かけた (ただし、だれの発言か記録していない)。資料の多くの部分がディジタル化されて公開されてからは、研究がふえているようだ。

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日本中世史のうちで軍事を対象とする研究がすくなかった (最近やっとふえてきた) という話もあったが、わたしはそれがほんとうかどうか確認していない。ほんとうだとしても「戦争を目的とする研究」とみなされて抑制されたとは考えにくい。その分野特有の要因があったのだと思う。

文献

  • 杉山 滋郎 [しげお], 2016: 軍事研究,何を問題とすべきか : 歴史から考える。科学技術コミュニケーション, 19: 105-115. https://doi.org/10.14943/74104