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気候が人口にどのように影響をあたえるかについての考え

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】
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2019年3月23日の歴史人口学・歴史気候学の研究会でコメントとして話したことのうちで、[2019-02-14の記事]にあげたプレゼンテーションファイルにはあったのだが、[2019-03-20の記事](6月の会での報告の予稿)でも、[2019-03-24の記事]でも、まだのべていなかった論点があった。3月23日のコメントでは、プレゼンテーションのページを見せながら短くのべただけなので、うまくつたわらなかったかもしれない。

「気候が人口に影響をあたえる」しくみとしてどんなものがありうるかについて、人間社会を専門としないわたしなりに考えてみたことだ。2019-02-14の記事の「p. 5, p. 6, p. 7」に書いたことのくりかえしになるが、ここで文章にしてみる。

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気候が人口に影響をあたえる、複数の因果関係のうち、おそらくいちばん重要なのは、食料供給能力をとおしたものだと思う。

とくに、近代化するまえ(先近代)の、食料をおもに農業にたよっていて、人口の大きな部分が農民であるような社会では、気候要因が農作物の収穫量を制約し、それが人口を制約する、という構造が明確にあると思う。

数十年間の統計的状態としての気候は変化しない場合でも、その中での、1か月から数か月程度の時間規模の天候は、さまざまな状態になる。農業の実践はその気候のうちで頻度の高い天候に適応して発達するだろうから、寒 (冷夏、厳冬)、 暖 (酷暑、暖冬)、乾 (渇水)、湿 (慢性的洪水)のいずれにしても、極端な天候では、収穫量が減ることが多いだろう (まれには、ふえることもあるだろうが)。

農作物収穫量は、もちろん天候によって決定されるわけではなく、農業技術や農業経営によっても変わってくる。(例として、西日本では、時代とともに、おもに灌漑の発達によって、夏の乾燥への適応が進んできた。)

利用可能な食料の量は、直前の農作物収穫量のほかに、備蓄、交易、政策的再分配などによって大きく変わってくる。(農作物が商品作物であるばあいは、その農作物の収穫量と食料との関係は、交易などを通じた間接的なものになる。)

その地域(村など)の人口扶養能力(用語が適切かどうかわからないが仮にこうしておく)にとって、利用可能な食料は重要な要素だが、ほかの要素もある。

実際の人口 の変化の要因としては、その場の人口扶養能力の変化よりも、人が移動することのほうが重要かもしれない。ただしそれには、広域の人口扶養能力の分布の変化への応答である部分があるだろう。

もし、ある地域のある時代の人口の変化の主要部分が、このようなしくみによるものならば、それに気候要因がどのようにどれだけきいていたのかを評価するような研究が可能だと思う。

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しかし、気候が人口に影響をあたえるみちすじはこれだけではない。前の2節で論じたものを、いわば「慢性」とすれば、「急性」のものもある。

気象災害といわれるもののうち、冷夏や渇水は上にあげた「極端な天候」にふくまれるだろうが、洪水は、日本列島の地形条件のもとではたいてい、1日の時間規模の「極端な天気現象」である大雨によっておこる。 (大雨が多発するならば、極端な天候とも言えるが。)

大雨の降水量は、時間的・空間的に集中しておこる。いまの気象観測網と予測能力のもとでは、たとえば、「1日後に関東地方で大雨がある」という予報は可能だ。しかし、実際に大雨がおこるならば、関東地方のうちどこかで、ほかの場所よりも1けた以上多い量の雨がふる、という形になるだろう。集中する場所が、たとえば栃木県になるか茨城県になるかを、1日前の状況から予測することは、将来ともむずかしいだろうと思う。大雨は、いわば、一種の破壊現象で、それが潜在的におこりやすい状況の発達は決定論的に予測できることもあるのだが、その状況がどこで「こわれる」かは偶然としか言いようがないこともあるのだと思う。

大雨が洪水災害をもたらすかどうかは、気象ではなく陸上の水の動きによる。現代日本ならば、川にはたいてい堤防がつくられているから、堤防がこわれること(破堤)によって状況が大きく変わる。これはあきらかに破壊現象で、決定論的な予測はむずかしい。先近代のばあいは破堤とはちがった形をとるかもしれないが、広い意味で同様なことが言えると思う。

このような破壊現象をふくむ問題については、たとえ因果関係を追った予測モデルをつくれたとしても、現実とくわしく合う予測をすることはむずかしい。

したがって、気候が洪水災害を通じて人口にどのような影響をどれだけ与えたかを、決定論的に論じることはむずかしい。多数の(なんらかの基準で)同様とみなせる事例があれば、確率論的な議論はできるかもしれない。

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ついでにのべておくと、火山噴火、地震、(地震による)津波は、固体地球(岩石圏)におこる破壊現象と考えることができる。これと気象災害とは原因としては別々のものだが、複合して人間社会に影響をあたえることもありうる。

感染症の大規模発生・伝播は、ヒトと病原体をふくむ生態系におこる破壊現象のようなものと考えることができると思う。感染症の潜在的な発生可能性は、天候や洪水によって変化する。したがって、これは気候が人口に影響をもたらす経路のうち重要なもののひとつだ。しかし、因果関係を追うことは、確率論的にしかできないと思う。

ここでは社会現象に深入りはできないが、たとえば暴動は、社会におこる破壊現象のようなものと考えられる。これも気候と人口の中間項でありうるのだが、因果関係を追うことは、確率論的にしかできないと思う。

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ここから気候の変動・変化を考えてみる。

人間社会の態度は、ヒトの1世代間隔から寿命程度、つまり数十年の期間の経験にもとづいて、気候に適応して発達しているだろう。

気候の変動の周期性は単純ではない。ひとつの考えかたとして、さまざまな周期の正弦波(サインカーブ)型の変動のかさねあわせとみなすことができる。変動の周期帯によって、人間社会の応答がちがってくる。このようなとらえかたによる議論には、中塚 武さんによるものがあり、わたしは(今のところ)それはもっともだと思う。ただし検証となる知見をもっているわけではない。

先近代の、食料をおもに農業にたよっている集落を想定している。

  • 数年周期の変動 (わたしの用語ではこれは「気候の変動」ではなく「気候の内での年々の天候変動」だが)による不作に対しては、人びとは備蓄などで適応するだろう。
  • 数百年周期の変動に対しては、人びとは移住などで適応するだろう。(不作が数十年間続いた土地は、農業に適しないと判断するだろう。)
  • その中間の、数十年周期の変動に対して、人びとは適応できず (それまで数十年の経験にもとづいて適応していたと思っていたあてがはずれて)、災害となるだろう。

したがって、数十年周期の変動も、数百年周期の変動も、人口に影響をおよぼすのだが、その形がちがったものになる(と思う)。

文献

  • 中塚 武, 2012: 気候変動と歴史学。『日本史と環境』 (平川 南 編, 吉川弘文館), 38-70. [読書メモ]