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歴史人口学・歴史気候学の研究会で考えたこと

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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2019年3月23日、日本人口学会 関西地域部会 主催の研究会「天明-天保期の東北地方における気候と人口 --歴史気候学との対話--」に参加した。この研究会は6月2日の日本人口学会大会のときの企画セッションの前段階という位置づけもある。

コメント担当に指名されていたので発言したのだが、閉会時間がせまっていたせいもあって、6月2日の準備として用意していた話題([2019-03-20の記事]に書いた)は とばして、その場で思いあたったことをのべた。表現がまずくて、言いたりなかったことや、講演者のかたがたに対して失礼な言いかたになってしまったこともあった。また、そのあとの食事のおりに、参加した人口学者のかたと話をして、わたしの考えがいくらか進んだこともあった。帰ってから、わたしなりに問題を整理してみた。(このブログ記事は、わたしの考えをのべるものであり、研究会の紹介ではない。)

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気候は、人間社会のありかたを決定しているわけではないが、人間社会にとって重要な制約要因となっていると思う。気候と人間社会との関係を数式で書くとすれば、方程式(等式)にはならないが、不等式のかたちできいてくるのだと思う。

気候が変動すれば (ここではひとまず「変動」と「変化」を区別しない) 、もちろん、気候による人間社会への制約も変化する。しかし、「人間社会への制約として気候が重要だ」と言うとき、それはかならずしも「気候の変動が重要だ」ということを意味しない。

ここで「気候」ということばの意味を限定しておく必要がありそうだ。ここでは「気候」は、地上に近い気象の変数の、数十年(典型的には30年)間の統計で表現できるような現象としておく。ただしこの「統計」は平均値だけではない。数十年のあいだに、1日の時間規模の極端天気現象(たとえば豪雨)や、数か月の時間規模の極端天候(冷夏や少雨など)の、どのくらいの規模のものがどのくらいの確率で出現するかも、気候のうちわけであり、おそらく人間社会への制約としては平均値よりも重要だろう。

わたしは気候を専門とし、古気候に関心をもってきたが、ながらく、歴史時代 (ここではこのことばで、人間の文字による記録があるが、観測機器による観測がそろっていない時代をさす) の気候に関心をもってこなかった。それは、古気候の問題の典型として、第四紀のうちの氷期(たとえば2万年まえ)と間氷期(現在や、12万年まえ)とのちがい(世界平均地表温度で約5℃程度といわれる)に注目してきたので、それにくらべれば1万年まえから産業革命まえまでの「完新世」の状態は「ほぼ一定」で、そのなかの変動はシグナルというよりもノイズだと感じてきたからだ。いまでも、産業革命以後の温室効果強化の件を別とすると、歴史時代の気候の変動は、人間社会の変動をおこす要因として、あまり重要でないだろうと思っている。

ここで思いなおしてみると、わたしをふくめて、気候自体の研究者は、気候の変動こそ研究対象だと思う傾向があるのだ。変動しない気候は自明すぎて研究対象にならないのだ。しかし、気候とほかのものとの関係を研究する場合には、変動しない気候も研究対象として意識すべきなのだろう。

[2017-05-19の記事]を書いたとき、わたしは、鬼頭(2002)の本を、気候に関するどんなデータを使っているかに注目して読んだ。そのときわたしは江戸時代の気候の変動に関して論じているだろうと期待していた。ところが、出てきた数量が、現代の気温の観測にもとづく「温量指数」だったので、がっかりしたのだった。しかし、思いなおしてみると、気候には江戸時代も現代も基本的には変わらない地域によるちがいがあり、それが、江戸時代のききんのあらわれかたの地域ごとのちがいにとって重要な制約になっていただろう、というのはもっともだ。そこで出てくる地域ごとの気候要因の見積もりが妥当かどうかは、気候だけを研究対象にしていたのでは気づかない、気候研究者にとっての課題だ。

文献

  • 鬼頭 宏, 2002: 文明としての江戸システム (日本の歴史 19)。講談社, 338 pp. ISBN 4-06-268919-7.

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気候は、いろいろな空間・時間スケールの現象がかさなりあったものだ。ここでは空間スケールのほうを考える。人間社会に影響をあたえるのは、それぞれの場所のローカルな気候だろう。観測で得られる気候の情報も、大部分はローカルなものだ。ところが、理論や、数値モデルにもとづいた予測型のシミュレーションによって、(相対的に)高い確信度で論じられるのは、グローバルな気候なのだ。(ここまでは6月2日の予稿として書いたものでもふれた。)

ローカルな気候の予測がほしいという需要はたしかにある。グローバルな気候の予測 (実際には将来シナリオを仮定した予測型シミュレーション)ができれば、そこからローカルな気候がどうなるかを推定する仕事をする。この仕事を、ちかごろ(2000年ごろからだろうか)その関係者が、ダウンスケーリング (downscaling)と呼んでいる。それはあきらかに、空間規模が大きいほうが「上」で小さいほうが「下」だという連想にもとづいている。わたしはその連想をかならずしも共有しないので、この用語をあまり使いたくないのだが、人びとが使っているのをみとめないわけにいかない。

3月22日の研究会での歴史人口学の研究者の発表が、たとえば「郡」の規模の人口が天明や天保のききんのときにどのように変化したか、というものだろうとは予想していた。ふだんグローバルな気候をあつかっているわたしも、話をかみあわせるためには、ダウンスケーリングの発想でローカルな気候を考えなくてはいけないという覚悟はできていたつもりだった。

ところが、発表とそれに対する質疑討論が、町と農村を区別しないといけない、年齢層や性別を区別しないといけない、さらに社会階層(貧富)によって区別しないといけない、というふうに、こまかくなるほうにすすんだ。それは、ききんという社会現象を理解するうえで必要なことかもしれない。社会の異常天候への脆弱性を評価するうえで必要なことかもしれない。しかし、その地域の人口が異常天候にどう応答するかをおおづかみにとらえるところにどうつながってくるかがつかめなかった。そこで、コメントの際に「わたしはそれに関心をもてない」と言ってしまった。「それは気候と人口との関係を論じるために重要でないと思う」という価値判断ではない。わたし個人の限界をのべただけだ。

それから「県くらいの規模でaggregateしてほしい」と希望をのべた。この表現はうまくなかった。会のおわったあと個別にだが、まず、「aggregateしようにも、宗門人別帳などの基礎資料が、かぎられた村落についてしか残っていないので、できないのだ」と言われた。「aggregate」という表現から、単純に集計することと思われたのだろう。ここは「推計」というべきだった。「ダウンスケーリング」を説明したうえだったら、「アップスケーリング(upscaling)」と言えたかもしれない (しかしわたしはここで上下を連想させることばを使いたくなかった)。それから、いまの行政区画の「県」のさかいめは、あきらかにその制度ができるまえの社会にとって意味がない。わたしは「空間規模 100 km ぐらいで」というべきだった。

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イギリスでは、「教区簿冊」にもとづくミクロの歴史人口学研究をもとに、イングランド全体の規模の推計もなされているのだ、と聞いた。それはイングランドでは(完全ではないが)多くの基礎資料が残っているからできることで、日本で直接そのまねはできないらしい。しかし、広い意味で同様なことを、どなたかとりくんでくださるとありがたい。

わたしが指摘できる参考例は、気象のデータ同化だ。単純化して言うと、物理法則にもとづく数理モデルがあって、それによる予測計算が可能になっている。観測値があれば、それと予測値とを比較し、これまでの経験による観測誤差と予測誤差の評価をもとに、結果の誤差を小さくするように予測値を修正して「解析値」を得る。

人口のばあいも、動的な数理モデルを構築する必要があるだろう。モデルは観測値と比較できる数量を出力できる必要がある。(出力変数はモデルの状態量とむすびついている必要があるが、必ずしも状態量自体でなくてよい。) また、モデルは、人口がかならずしたがうはずの基本的法則にもとづいているべきである。気象のばあいは、おもにエネルギー保存などの物理法則により、補助的に経験則をつかうモデルを構築することができた。人口のばあいも、人口という数量がどのような原因で変化しうるかについては (観測値を得られるかを別にすれば)厳密な法則があるといえるが、それだけでは決定不完全だろう。さらに、人間が生きていくために衣食住などの資源が必要だという法則もあると思うが、おそらくそれは等式というよりも不等式型の制約条件としてはいってくるだろう。したがって、気象データ同化と同じしくみにはならないが、広い意味で同様な考えかたができると思う。観測値とモデルによる予測値とを比較し、予測値をどれだけ修正するかを統計学的な判断できめる、という理屈だ。ただし、気象の場合の「予測」は時間軸上でまえに進むものだったが、ここではかならずしも時間前進ではなく、「予測」とは観測値をとりこむまえの知識による推定をさすと考えてほしい。(残念ながら、わたしはこのさきを具体的に考えられるような勉強ができていない。言いっぱなしになって申しわけない。)