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(勧めたくない用語) バタフライ効果

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

5月23日はEdward Lorenzの誕生日だそうで、その業績が「バタフライ効果」ということばで代表されて話題になっていた。

いわゆる「バタフライ効果」の話をわたしは[2015-12-12の記事]に書いたのだが、そこではもっと漠然とした話題のついでに書いたので、この用語の件だけ取り出して別の記事にしておくことにする。【この用語は気象学用語ではないので、記事カテゴリー「気象むらの方言」には入れない。】

Edward Lorenz (ローレンツ, 1917 - 2008)は、数学を学び、気象学に専門を移してその理論の発展に貢献した学者である(たとえば[2014-06-18の記事「大循環」]参照)。Lorenzは(応用数学用語としての)「カオス」の理論を構築した(複数の)人のひとりでもある。彼の立場からのカオスについての展望は一般向けの本『カオスのエッセンス』(Lorenz, 1993)にある。

カオスの理論とかなり重なる問題領域として、予測可能性の件がある。天気予報はなん日さきまで有用か、といった問題に対して、現実の技術が能力不足であることを別としても、理論的限界があると考えられるのだ。

大気の運動は、ある時刻(「初期時刻」と呼ぶ)にあったわずかな違いが、それから時間がたっていくにしたがって大きく拡大していくという性質をもっている。(おそらく世界の多くのものごとが、多かれ少なかれそういう性質をもっているのだろう。)

数値天気予報の場合ならば、初期時刻に与える値には観測誤差程度の不確かさがある。それが時間とともに広がっていく。注目する変数(たとえば気温)の不確かさがその地方・その季節で起こりうる最低から最高までの幅に匹敵するほどになったら、それ以上予測計算を続けても予報としての有用性はない。

Lorenzの仕事をきっかけとして、気象の話ではなく一般に、初期時点でのわずかな違いが大きく拡大することについて、「butterfly effect」と表現されるようになった。それには次のような複数の由来がある(『カオスのエッセンス』参照)。

  • Lorenzは1972年にAAAS (アメリカ科学振興協会)の会合で『Does the flap of a butterfly's wings in Brazil set off a tornado in Texas? (ブラジルの蝶のはばたきがテキサスにたつまきをひきおこすか?)』という講演をした。この表題はLorenz自身ではなく彼を講演者として招いた人がつけたのだそうだ。それまでにLorenzがたとえに使ったのはカモメだったが、これ以後、多くの人がまねをする際には、蝶を使うことが定着した。しかし地名は北京だったりニューヨークだったり、激しい現象は嵐(storm)だったりハリケーンだったり、まちまちである。
  • これとは直接の関係はないのだが、Lorenzが1963年の論文以来たびたび使う図に、蝶を思わせる形のものがある。1963年の論文では、対流を起こす流体の運動方程式を単純化して、空間次元をもたない3つの変数が相互作用しながら時間とともに変化するものにした。対象の状態は3つの変数の値で表現でき、これを3次元空間(状態空間という)の点とみなすことができる。対象が時間とともに変化することは状態空間中の軌道にあたる。有名な図は、軌道が漸近していく行き先にあたるアトラクタ(attractor)というものを、3次元空間の透視図のように表現したもので、形が蝶に似たところがある。(軌道をすなおに表示しただけでも蝶に似て見える。)
  • Lorenzとまったく関係なく(上記の講演依頼者も知らなかったそうだ)、SF作家 Ray Bradbury (ブラッドベリ、1920 - 2012 【同業者向け注: 名まえを古気候学者 Ray Bradley と混同しないこと】)が1952年に発表した 『A Sound of Thunder (雷のとどろくような声)』という短編がある。これはタイムマシンもので、時間旅行者が、蝶をふみつけてしまい、意図しない歴史改変を起こすのだ。改変の度合いは(タイムマシンものにしては)あまり大きくなくて、時間旅行者は出発したとき・ところにもどってくるのだが、人名などが変わっている。「Butterfly effect」という表現を、この小説を思い起こして使う人も多かったようだ。【わたしは子どものころたまたまこの話を読んでいくらか印象に残っていたが、題名も著者も忘れていて、Lorenzの本で話題になっているのを見て気づいた。言われてみれば文庫本の題名は覚えていた。R is for Rocketを「ウは宇宙船のウ」としたら、次にS is for Spaceが出てきて日本語版題名が苦しまぎれのものになったという経路依存のできごとも。】

これは日本語では「バタフライ効果」と書かれることが多いようだ。しかし、日本語の単語としての「バタフライ」は水泳のスタイルをさすのがふつうで、めったに蝶のことをささない。(「マダム・バタフライ」と「蝶蝶夫人」が同じであるといった遠まわりをしないと関連を思い出せなかったりする。) また、蝶は、上に述べたどの由来をとっても、この概念にとくに必然性のある要素ではない。だから、わたしは、「バタフライ効果」よりは「ちょうちょ効果」のほうがましかとも思うが、いずれにしても、この概念にふさわしい用語と感じられない。この概念に短い名まえがほしいという需要があることはわかるのだが。

文献

  • Ray Bradbury, 1952: A Sound of Thunder. Collier's June 28 1952 issue; (1962) In R is for Rocket, New York: Doubleday.
  • [同、日本語版] レイ・ブラッドベリ 著, 大西 尹明 訳 (1968) 雷のとどろくような声。ウは宇宙船のウ (創元SF文庫), 東京創元社 所収。
  • Edward N. Lorenz, 1963: Deterministic nonperiodic flow. Journal of the Atmospheric Sciences, 20: 130-141. DOI: 10.1175/1520-0469(1963)020<0130:DNF>2.0.CO;2
  • Edward N. Lorenz, 1993: The Essence of Chaos. Seattle: University of Washington Press.
  • [同、日本語版] ローレンツ 著, 杉山 勝, 杉山 智子 訳 (1997): カオスのエッセンス。共立出版。[読書メモ (2022-12-15)]