【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】
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今とる政策は、未来に影響をおよぼすだろう。政策を考える際には、これから数十年くらいの未来の見通しをもつべきだろう。もちろん、未来のことは確実にはわからない。しかし、知識を動員すれば、起こりうることはある程度しぼりこめる。
未来は、人間の思いどおりになるものではない。しかし、人間の意志でいくらかは変えられるだろうと思う。(すべてが必然として決まっているという考えもありうるのだが、そう考えたくないのは、わたしに限ったことはないだろう。) そこで、複数の政策選択のシナリオを想定し、それぞれの未来をシミュレートして、その違いを、政策判断の材料にしたい、と考える。
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シミュレートされた未来どうしをどう比較するか?
ひとつの立場が、経済学的評価だ。さまざまな価値を、貨幣価値というひとつの尺度に換算する。このようなやりかたには、明らかに、不満がある。しかし、「かけがえがないもの」といった定性的なとらえかただと、ふたつの政策でそれぞれ違った「かけがえのないもの」が失われる場合に、選択に進めなくなってしまう。限界があることを忘れないこと、単独の判断基準にはしないことを前提として、ひとつの評価指標にまとめ、一定の手続きで計算することには意味があるだろう。
指標としてよく使われるのは GDP (国内総生産)または(まったく同じではないが同類の) GNP (国民総生産)だ。ただし地球環境政策の場合、その世界合計に注目することが多い(地域別も見るが)。世界合計については国内(domestic)はまずい表現だが、便宜上使われている。GDPは経済の flow の指標であり、stockの指標の「国富」もあるが、GDPのほうが重視されることが多い。
人の幸福はもちろんGDPだけで決まるものではないが、ひとりあたりのGDPはその複数の要因のひとつと言えるだろう。人口が変わるので、違う時点間の比較や、違うシナリオ間の比較では、合計とひとりあたりの富では大小関係が逆になることもある。(国が栄えるという観点では、ひとりあたりよりも合計のほうが重要だと考える人もいるだろう。)
貨幣価値には、インフレ、デフレがある。そこで、すなおに貨幣の尺度で値を求めた「名目GDP」を、物価指数によって補正した、「実質GDP」が使われる。しかし、さまざまな商品の価格は違った変化をする。物価指数はそれの、ある重みづけの平均にすぎない。何十年もたつうちには、物価指数を構成する商品群を変える必要がある。十年くらいの期間での評価ならば、実質GDPは意味がありそうだが、地球温暖化問題で典型的な百年くらいの期間について、実質GDPは意味がある変数なのだろうか、という疑問もある。
政策の選択肢の帰結どうしを比較するときには、費用便益分析(cost-benefit analysis)の考えかたが使われることが多い。次に述べるのは、典型的な費用便益分析ではないかもしれないが、地球温暖化問題の対策をするべきかどうか判断するときに使われる考えかたの例だ。温暖化が起きると、それによって災害の被害がふえることによるGDPの損失がある。温暖化対策をすると、その費用のぶんだけGDPの損失がある。どちらが正味の利益が大きいか、と考える。
ただし、損失は正味の利益だと考えている。ほんとうに、費用や被害と、利益とは、同じ軸の逆向きのもので、打ち消しあってくれるかは、確かでない。むしろ、ひとつの尺度にしないと計算が困難だ、という技術的事情でそう考えているのだと思う。【たとえば、人口という変数が、負になれないとか、1人未満の小数になれない、というふうに、変数のとりうる値に制約がある場合は、たとえ計算困難でも、考慮しなければならないこともあると思う。】
温暖化の影響は未来に現われる。対策の費用はもっと早めに必要になる。時間軸上で違う位置にある損失をどう比較するか。無限の未来まで同じ重みにすると、判断に無理が生じる。そこで、割引率という考えかたが使われる。割引率が年あたり1%ならば、来年の利益は(1-0.01)、さらいねんの利益は(1-0.01)の2乗、n年後の利益は(1-0.01)のn乗をかける。割引率は利子率(物価上昇率をひいたもの)と同じであるべきだという考えもある。わたしは、同じである必要はないと思う。割引率は、将来が不確かであること、あるいは今の人があまり遠い将来まで心配できないことの反映だと思う。
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多くの場合、GDPは成長するものと仮定される。世界全体として、数十年の期間にわたって、高度成長を仮定することはできない。しかし、たとえば、経済成長の立場からは低成長とみなされるだろう年1.5%の成長率だとしても、100年たてば、GDPは4.4倍になる。増加分を%で表現すれば340%である。
温暖化の被害は、典型的には、GDPが10%減る、といったものと予想されることが多い。そこで、温暖化対策に反対する人による「340%の成長が、300%の成長になるのだが、どっちみち100年後の人々は今よりはだいぶ豊かではないか。その人たちのために、今の人たちが温暖化対策の費用を使う必要はない。」といった理屈も見かける。他方、温暖化対策を推進する人は、対策の費用を、それぞれの時代のGDPに対する相対比として見たうえで、数十年をとおして見ると温暖化の被害よりも安いという見積もりをして、早く投資したほうが得なのだ、という理屈を述べる。
政策家も、経済政策が大失敗すれば、数十年の時間規模でGDPが成長しない可能性もあることを認めている。わたしは、政策の大失敗がなくても、必ず成長するという期待には無理があると思う。成長率が小さくなるかもしれないし、(温暖化と関係あるにせよないにせよ) 経済規模が急に小さくなるような破局が起こるかもしれない。100年後のGDPは、今の4倍ではなく、今と大差ないかもしれない、と考えるべきなのだと思う。そうすると、「100年後のGDPが10%減る」ことは、今からまもなくGDPが今の90%になるのと同じくらいの、社会にとっての衝撃だと思えるのだ。
経済政策をうまくやっても、成長が必ずしも期待できないと考えるのは、天然資源や環境に限界があり、人間による物質やエネルギーの流れを、今よりも大きくすることはむずかしく、むしろ小さくしなければならなくなりそうだからだ。(あとで述べるように、技術の発展によっては、小さくしなくてすむ可能性もあるが、まだできてない技術はあてにならない。)
わたしは、Ayres & Warr (2009)の議論がもっともだと思っている。GDPを、資本と労働で説明しようとすると、大きな残差がある。伝統的にはそれは「技術」であると説明されてきた。しかし、アメリカ合衆国および日本の過去百年のデータで見ると、投入されたエネルギーとの対応がよい。詳しく言うと、対応がよいのは、投入された「有効な仕事」とであり、投入された一次エネルギーから有効な仕事を得る効率が上がったぶんだけは技術の貢献がある。しかし明らかに、技術による効率の改善には熱力学および材料からくる限界がある。【この本が示しているのは相関関係であって、因果関係が論証されたわけではない。20世紀の世界の驚異的な経済成長のうち、どれだけがエネルギー資源消費の成長のおかげだったかを決めるのはむずかしい。しかし、それがかなり大きな要因だったと、わたしには感じられる。】
今後は、エネルギー資源には限界がある。【もし、たとえば核融合、宇宙太陽光発電などが実用になって、事故の危険、廃物問題、廃熱問題も解決できるとすれば、この前提は破れるかもしれない。しかしそのような技術発展は確実に期待できるものではない。】 すると、経済成長は、政策に失敗しなければできて当然、というものではなくなる。たまたま成長できるかもしれないが、よい政策をとっても成長できないこともあるだろう。
エネルギー・物質の流れの少ない、情報産業や金融業では、エネルギー・物質の流れをふやさなくても、貨幣価値でみた富の成長は可能かもしれない。しかし、そうすると、情報産業や金融業がしだいに(貨幣価値で見た)経済の大きな割合をしめるようになり、人が生きるのに不可欠な衣食住の基本財を生産する産業をふりまわすことになる。それは短期的にはともかく、長期的に望ましい経済政策ではないと思う。
これからの世紀の世界では、経済規模は一進一退、近似的にゼロ成長、というのを基本に考えるべきだと思う。
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人間社会は、ゆるやかに変化するとは限らない。「破局」もありうるだろう。
地球温暖化との関係で起こるかもしれない破局については、[2015-02-15の記事] [2015-11-29の記事] [2015-11-30の記事]で話題にした。
ここで考える「破局」とは、社会システムがこわれることだ。そうすると、餓死者が出るような、人道的に悲惨なことも起きるだろう。また、シミュレーションの立場からは、経済モデルで仮定したなめらかな関数が成り立たなくなる、という事態になるだろう。
破局をもたらしうる事件は、たとえば、核戦争とか、未知の感染症の大流行とか、いろいろ考えられる。それは、地球環境の変化によって起こることもあるし、それなしに、社会独自の変化によって起こることもある。地球環境の変化に限っても、人間活動起源の気候変化(地球温暖化)による場合もあるし、そのほかの原因の場合もあり、ほかの原因だが地球温暖化との複合効果がある場合もある。
破局が地球温暖化を原因とするものならば、地球温暖化対策を考えるシナリオ比較には、破局が起こる可能性をも組みこむべきである。しかし、破局のところでは、モデルの関数が不連続になる。不連続点を含むモデルを作ることはできるかもしれないが、いつどのような不連続点が生じるかの可能性をすべてつくすことはできず、たまたま思いついた事例になりがちだろう。
また、地球温暖化以外を原因とする破局もある。地球温暖化を考える際にも、経済がなめらかに成長あるいは定常状態を保つシナリオばかりでなく、その他の破局によって、経済規模が急に縮小してしまうようなシナリオも想定しておくべきだろう。しかし、想像できるシナリオはあまりに多様で、それを想定した計算をしつくせないことは明らかだ。【たとえば、「2060年代に、日本が核武装し、日本と中国との間に核戦争が起こる」のようなシナリオは、けっして想像したくないが、想像可能ではある。】
学者でないもの書きの人が未来を語る本では、少数のシナリオを定性的に語っていることが多い。温暖化によって破局が起こるシナリオを使って、温暖化対策の必要性を強調する人もいる。温暖化以外の原因によって破局が起こるシナリオを使って、さまざまな政策のうちで温暖化対策は重要でないと主張する人もいる。
重要性を比較しようとすると、シナリオを定量的にしてシミュレーションしてみる必要があるだろう。未来にいくつかの不連続点を想定し、木型に分岐していく複数のシナリオを考えることはできるだろう。しかし、どんなシナリオを思いつくか、また、限られた計算機資源をどんなシナリオのシミュレーションにまわすか、は客観的に決まらず、得られる知見は、研究者がたまたまどんな仮定をしてみたかに依存するだろう。
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未来を考えるうえで、予測困難なことがらとして、技術の発達もある。発明は予定どおりにできるものではない。
技術は今と変わらないと仮定することは、あまりに保守的だが、望みどおりの技術が得られると仮定することは、あまりに楽観的だ。
技術の内容に深入りせずに、経済を中心に、未来の見通しを得ようとする人たちは、経済の発達と技術との関係についてのこれまでの経験に基づくモデルが将来とも有効として、経済発達に伴って技術が発達すると考えることがある。わたしは、これはやや楽観的に偏った態度だと思う。技術の発明や普及が成功するかどうかが不確かであることに加えて、モデルの根拠となるこれまでの経験はエネルギー資源の利用量が成長してきた時代の経験であり、今後はその条件が続くとは限らないからだ。
技術の内容に立ち入って考える人は、基本的には、すでに動作することがわかっている技術だけが利用可能と考えることが多い。ただし、習熟効果、普及効果などで単価が安くなることは期待する。(もっとも、20世紀の技術は規模を大きくすると単価を安くすることができたことが多いけれども、それは化石燃料や原子力などの集中的に得られるエネルギー源のおかげだったと考えられる。再生可能エネルギーや生物資源の利用では、同様なことが続くとは限らないだろう。)
さらに、動作する技術でも、人々の価値判断によって、利用不可能になることもありうる。たとえば、地球温暖化の「緩和策」(二酸化炭素排出削減策)としての、原子力の利用、二酸化炭素回収隔離(CCS)は、それぞれ、大規模に使える手段として認められるとは限らないだろう。また、遺伝子組みかえを使う技術が、全面的に禁止されることはなさそうだが、使いみちに制約がつくだろう。このあたりは、今後の人々の価値判断に依存するところであり、長期の見通しをもつことがむずかしい。
しかし、技術の見通しの確実でないことは、悲観的なことばかりではないだろう。すでにある技術よりも飛躍的によい技術ができることも、あてにせずにだが、考えておいたほうがよいかもしれない。そのような意味で、地球温暖化対策の研究者は、たとえば「新技術によって太陽電池や蓄電池の単価が飛躍的に安くなる」という将来シナリオを検討してみようと思うことがある。
さらに百年後くらいの未来を考えるとすれば、有用になるか、有害にならないか、両面でとても不確かだが、宇宙太陽光発電や核融合が実現する可能性も、それぞれ考えておいたほうがよいかもしれないと思うこともある。
基本的な将来見通しでは、このような、できるかどうかわからない技術をあてにしてはいけない。それに加えての補助的試算として、原理的には可能だがまだ「夢の技術」であるものをいくつか選び、それがもし実用になったら、見通しが基本のものからどのように変わってくるかも考えておく、というのがよいと思うのだ。
文献
- Robert U. Ayres & Benjamin Warr, 2009: The Economic Growth Engine: How Energy and Work Drive Material Prosperity. Cheltenham, Glos., UK: Edward Elgar, 411 pp. [読書ノート]