アジアの人々が知識を共有する場がほしいと思う。たとえばウェブサイトだ。ところが、アジアの人々が使っている言語は多様だ。どういう言語で述べれば伝わるかという問題がある。
アジアの人が集まる国際会議では、通訳がはいる場合もあると思うが、(昔はともかく今の)自然科学の専門の会議であれば、共通言語として英語を使うのがほとんどだ。自然科学者が外国を訪問して現地の自然科学者と個別に情報交換する場合も、一方が他方の国語を使いこなせる場合のほかは、英語に頼ることが多い。
この事情をふまえると、少なくとも自然科学関係の話題では、アジアの人々の間で共有したい情報は、まず英語で書くしかないだろう。それを見て、英語を読めない自分のまわりの人にも伝えたいと思った人が、他言語への翻訳を追加すればよいだろう。その翻訳が正しいかどうかを原文を書いた人が確認することは困難だから、「このサイトが責任をもつ内容は英語版です。他言語版は非公式なものです。」とことわっておく必要があるかもしれない。
そう思ってみてもなかなか実際に始められない。思えば自分が「英語が苦手」なのだ。(高校生のときは高校生にしては英語が得意だったし、大学院生のときは専門の論文に限れば日本語よりも英語のほうが読み書きしやすいと感じていたわたしでも、こんな弱音を吐いてしまう。) アジア人どうしで会話しているときはどんな英語を使っているか意識していないのだが、反省してみると、専門用語を正確に使うようには注意をはらっているが、単数複数や冠詞の使いわけなどには無頓着なのだ。聞き手も単数複数や冠詞のない言語で育っている人ならば、そこでとがめられることはない。英語nativeの人にどう聞こえているかわからないが、幸い、標準的な英語でも冠詞や語尾は弱く発音されるところなので、そこを弱く発音しているかぎりは、あまり耳ざわりではないと思う。ところが、文章を書くとなると、そういう英語がそのまま世界に出ていってはまずいと感じる。学校で習った文法に従っていないのは恥ずかしいという意識は思いきって捨てることができるが、実際に読者に意味を取り違えられる可能性はなるべく減らしたい。ところがどういうチェックをしたらそれができるかよくわからないのだ。
わたしはこの問題を何年も前から感じていたが、なかなか文章表現できなかった。最近出た「科学」(岩波書店)の2013年1月号で、日本の大学で理科系の学生に英語を教えているトム・ガリーさんが科学に関する世界共通語としての英語の欠点について論じているのを読み、もっともだと思った。ただし、人工言語を使うという対案は筋は通るがこれから実現可能とは思えない。(また、人工言語の例としてあげられているエスペラントも単数複数の区別や定冠詞などの英語の欠点は共有する。)
英語を(半)人工言語に改造することを考えたほうがよいのだと思う。文法や語彙の標準は、まずはイギリス・アメリカ・オーストラリアなどで共通に通用するものにならうしかないと思うが、それらの国の文化に深くかかわる要素は除外する。複数の言語を知っている立場から見て普遍的でないと判断される英語特有の性質もなるべく避ける。ウェブサイトで使う英語(の方言)の標準としてこのようなもの [仮に「アジア共通語」と呼ぶ]を設定し、投稿された文書をそれに沿って添削してから掲載し、なるべくは投稿する人自身が標準に沿った言語で書くようにする。
「アジア共通語」(ができた場合)の強みは、アジアのさまざまな言語との間の相互翻訳がしやすいことだ。そのために機械翻訳を活用することにする。読み書きできる言語が英語と自国語だけの人でも、アジア共通語と自国語の間で複数回機械翻訳して意味が変わらないかを確かめることができる。それがうまくいかない場合、原稿を改訂する、翻訳プログラムを改訂する、アジア共通語標準を改訂するという対策がありうる。とうぶんの間は機械翻訳技術もアジア共通語標準も未熟だろうから、書き手の不満を受け止めて改訂する努力が必要だろう。
実際には、たとえアジアで共有したい自然科学関係の話題でも、人が書く文章の全部が機械翻訳可能ではないだろう。あらかじめ人(書き手あるいは編集者)が機械翻訳対象にするところとしないところの区別を意識して記号を入れておくのが現実的対策だと思う。機械翻訳からはずすところは、翻訳家がその専門技能を駆使した訳をつけるまでは、暫定的に原文のまま表示しておくことになる。切り分けも、機械的にできず人の技能を必要とする仕事だが、機械翻訳技術の開発者と伝えたい内容をもつ人とで共同研究して参考例を示せば、書き手にまかせることができると思う。
「アジア共通語」の標準を、現在通用している英語の標準に近いものと、合理的に筋を通したものとの間で、どのあたりに置くかはむずかしい問題だ。たとえば、筋を通せば、単数複数の区別や冠詞をなくすことも考えられるのだが、そうすると、英語とは明らかに違う言語になってしまう。大勢力になれれば別だが少なくとも当面は、「英語とみなされうる」ことは生き残りのために必要な性質なので、単数複数や冠詞については、「あってもよいがまちがってもとがめない」というのを「標準」とするのがよいのかもしれない。
文献
- トム・ガリー (Tom Gally), 2013: 英語は科学の共通語に適しているか。科学, 83, 107-110.
注
- この記事ではわざと「母語」ではなく「自国語」を持ち出した。自然科学関係の話題をまぎれなく伝えるための語彙がそろっていると期待できるのは、国の公用語として使われている言語にしぼられると考えたからだ。また、「英語native」もふつうは「英語を母語とする人」という意味で使うのだが、むしろここでは「英語による初等中等教育を受けた人」をさすとしたほうがよさそうだ。
- [2013-01-06追加] 「仮称・アジア共通語」としたのはここで考えているウェブサイトの利用者間の共通語という程度の意味にすぎず、アジア全体に通用させてやろうという思いあがった考えではない。ただし、英語をもとにした半人工言語で行こうと考えているところどうしの共通化はできるかもしれないと思う。