地球環境についての科学を主題とするPlanet under Pressure国際会議の宣言文 [日本語訳]についてわたしが理解した限り[4月2日の記事]でどうも納得がいかなかったことのひとつと、政策に寄与する科学技術に関する日本での議論に出てきた図についての疑問[3月25日の記事]は、ほぼ同じ問題であることに気づいた。以下、両方あわせて論じるが、おもに地球環境を想定して述べる。
一方で、現実に起こっていることについて体系的な認識を得ることは、科学者の役割であり、この局面では科学者は(科学者共同体全体としてだが)いわば特権的な立場を認められるべきだと言っているようだ。
とくに全地球規模の環境問題については、一般市民の知見を無視するわけではないのだが、人が生活しながら感じる問題はどうしてもそれぞれの場所でのローカルな問題になってしまうので、それを民主主義的に集めても全体像のよい近似は得られず、科学という特殊な手段が必要なのだ、と言えると思う。
他方で、問題の解決に向かう政策の局面では、決定はすべての当事者の意思を反映するように民主主義的に行なうべきだ。科学者には特権はない。ただし科学者には選択肢を提供することや、その効果および副作用を評価することなどの働きが期待されており、単純に科学者も市民であるというだけですむものではない。
このふたつの局面は明確に分離できるものではない。対策の評価あるいは対策の必要性の評価のために、科学的認識が必要だということが、社会から科学者への要請として出てくることもある。また、対策が行なわれた結果として環境がどのように変わったかを科学者が自発的に認識することによって、政策決定も次のステップに進むこともある。
どうもすっきりしない図式なのだが、
{社会、自然} → 観察型科学者 ⇔ 構成型科学者 ⇔ 問題当事者 (stakeholders) → {社会、自然}
といった表現が、まずまず妥当なのかもしれない。