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地球環境に対して人間社会ができることに関する思想

Planet under Pressureという会議に出て[4月2日の記事]、またイギリスの科学もの書きLynas氏の本を読んで[読書メモ]、地球環境の有限性と人間社会の持続可能性について論じる人の間でも、かなり違った考えがあることを感じた。少し整理を試みたい。(まだ、なま煮えである。今後も書きなおすと思う。)

一方の極端に、人間が何をしようと自然にたいした影響を与えることはできないのだという信念をもった人たちがいる。背景に自然は神の領域だという認識があることが多いが、無神論でもこのような考えはありうるかもしれない。ただし、人間が何をしようと自然環境は人間が困らない状態を維持してくれるだろうという楽観論と、人間の意志とはかかわりなく自然(あるいは神)は環境を人間が生存できないように変えるかもしれないといういわば運命論は、だいぶ違う。しかし、だれかが地球環境をまもるための政策を進めるべきだ(税金をその目的に向けるべきだ)という提案をしたとき反対するだろうという意味では、同じグループと見てもよいと思う。

他方の極端に、人間社会が地球の限界にぶつかってしまったという状態は科学技術がもたらしたものだから、科学をもとにした技術だけでなく、科学の多くの部分まで捨てるべきだという主張があるようだ。(科学的認識のうちには、質量保存のように、あとづけで考えれば合理的常識とも言えるものもあるので、そのすべてを捨てるのは無理だと思うが。) こう考える人のうちでも、望ましい政治像はいろいろありうるが、いずれにしても今の産業先進国の政治体制よりは単純化されたものになるだろう。化学肥料の生産も否定すれば現在の世界人口を支えられなくなっている。反科学技術の立場に徹するならば、科学技術を捨てる調整過程でおおぜいの餓死者が出たとしても、科学技術を捨てるという革命を進めるべきだということになるだろうが、科学技術よりも倫理が大事だと考える人はなんらかの妥協策を考えることになるのだろう。

実際のわたしが読むものは、地球環境を話題にしているものに偏るので、実際のところ、これまでに述べた両方の極端な議論に出会うことは少ない。わたしが読む近ごろの大部分の文章は、人間活動が地球環境に大きな影響を与えており、それが人間社会自体の持続性をおびやかしていることを認識し、人間活動が地球の限界を越えないようになんらかの政策をとるべきだという意見を含んでいる。

しかし、その内でも大きな違いがあることに気づいた。

- 地球環境を制御することへの楽観論 -
第1の極端から少し内側に、科学技術について楽観的すぎるとわたしには思われる一連の考えがある。

人間が地球環境に大きな影響を与えているからには人間には地球環境を望ましい状態に制御(コントロール)することが可能なはずであり、うまくコントロールすることが支配者の義務だ、と考える人がいるのだ。

機械をこわす能力は高いがなおす能力は低いわたしから見ると、人間が地球環境をこわす能力が高いことからなおす能力も高いことを想定するのは無理があると思う。

問題はむしろ、人間は地球環境の複雑さを(まったく知らないよりはだいぶ知っているが)充分理解していないし、将来も完全に理解できるとは思えないということだと思う。人工物あるいは実験室に関する経験からの類推で、制御可能と考えがちな人が多いようだ。いま制御能力がないことを認めたとしても、科学技術は社会が大きな投資をすれば解を見つけるだろうという楽観論がある。原子爆弾を作ったManhattan計画をその例にあげる人もいる(そこで生じた放射性廃物の長期安全管理が今も解決していないことは意識にのぼらないようだ)。

とくに地球温暖化は、二酸化炭素などの分子が赤外線を吸収・射出するプロセスを認めれば、あとは(水平2次元や季節変化・日変化の時間次元については平均した)鉛直1次元のエネルギー保存だけに単純化したモデルで理解できる。そのことによって多くの科学者の支持を得て、実際に深刻な温暖化が起こる前に政治の場に持ちこむことができたのだ。しかしその単純化によって、全球平均地上気温の変化さえおさえることができれば気候変化に伴う問題(ひいては、地球環境変化に伴う問題)はみな解決するという単純な認識をもつ人がふえてしまったように思う。太陽光の反射をふやすことによって温室効果強化を打ち消すという策を積極的に主張する人にはそういう発想があるのではないか。(地域・時期によってはむしろ気候変化を強めて弊害が出る可能性があることを承知のうえで、温暖化を野ばなしにするよりはましだと考えている人もいるが。)

もうひとつ、(Lynas氏を含めて)キリスト教文化で育った人のうちには、人間の能力は(地球環境に影響を与えることに関して)神の領域(の一部)に達したのであり、その立場に見合った(他の生物などに対する)責任があるのだ、という発想があるようだ。Planet under Pressure会議の宣言文[4月3日の記事]でも使われていたplanetary stewardshipという用語もそういう意味があるようだ(ただし宣言文はここで言う強い意味での地球環境の制御を意図してはいないと思う)。この発想を残して絶対神への信仰を捨てた人の場合、「人間は地球環境の支配者になった」という純粋な形になりうる。絶対神への信仰が強い場合は、前に述べたどちらかの極端論になりがちだと思う。しかし人間が科学技術を持ったことも絶対神からの指令に沿ったものだと考えれば、それは人間に地球環境を制御させるためだと考えられるかもしれない。

- 科学の位置の相対化 -
第2の極端から少し内側に、科学の意義は認めるものの、それは人間の知の多様なありかたのひとつにすぎないという議論がある。

政策決定には価値判断が必要となるが、科学はそこで必要な価値判断をもたらすものではない。したがって政策決定は科学だけでできるものではなく、さまざまな当事者の間の(そこにいることができない遠方の人々や未来の世代などにも配慮した)交渉ごとが主となる。その場で、科学者は特権を持つものではない。

しかし、少なくとも地球環境問題に関する政策決定について、科学者は退場すべきだとか、科学者は政策決定者から求められたときだけ答えればよいのだというのは科学否定のほうへ行き過ぎだろう。人間が感覚できるのはローカルな環境だ。グローバルな環境の認識は科学の力を借りる必要がある。科学的知見があって初めて指摘できた問題点があるのだ。科学者には、解決策として提案されているもののうちで明らかに現実的でないものを指摘することもできる。さらに、現実的な複数の解決策について、その帰結がどう違ってくるかを、もちろん決定論的に予測はできないが、どのくらいの幅の不確かさをもつかも示しながら示すことはできるだろう。

また、判断材料として科学的知見とローカル知をどう位置づけるかという問題がある。知りたい知見が科学ですべて得られるわけではないので、科学以外の知にも注目することはもっともだ。とくに古くからの住民の伝統的知は、おそらく過去の試行錯誤による裏づけがあり、科学的に考えても合理的なものもあるだろう。しかし、ローカル知には、今の視点から見て、明らかにまちがっているものもある。また、ローカル知をそれが形成されたのと違った場に拡張することの正当性を裏づけるのはむずかしい。同じ地点でも、環境あるいは人間社会の変化によって同じ「場」ではなくなっている可能性もあるのだ。ローカル知を尊重しながらも、その適用可能性については、人文社会科学を含む科学的方法によって、かなりきびしく点検していく必要があるのではないだろうか。