macroscope

( はてなダイアリーから移動しました)

{文系, 理系}×{リベラル, 保守}

(まだよく整理されていない考え。今後だいぶ書きなおすかもしれない。)

今年初めごろから何度も書いているが(多数あるのでリンク省略)、放射線ひばくの害に関する議論をきっかけとする、わたしから見ると不毛な、科学を論じる人たちの二極化が起きていると思う。

Twitterを見ていたら、「リベラルA、リベラルB」という仮のキーワードを使った議論があった。togetterに「科学技術に懐疑的な左派と、科学技術に親和的な左派」http://togetter.com/li/273850 というまとめがあった。kamayanさんがことし3月17日ごろにまとめたものだが、中身はtikani_nemuru_M (地下猫)さんの2月28日から3月2日のtweetだ。

いろいろな人の態度を、「リベラル」対「保守」と、科学技術に好意的かどうかとの2つの軸で見ることは、かなりあらっぽい簡略化だが、それなりに有効だろう。tikani_nemuru_Mさんやkamayanさんのねらいからははずれるかもしれないが、わたしは、どちらの「軸」についても、人々が二つの集団に分かれるのではなく、連続分布するととらえている。あらっぽい簡略化であることを承知ならば、意味のない記号である「A, B」よりも内容をいくらか連想させるキーワードがよいと思うので、わたしはあえて「文系」対「理系」と表現してみることにする。

ここでいう「文系、理系」は、人を学歴で分類しようとするものではなく、考えかたの発想に注目したものだが、理科系の教育を受ければ「理系」になりやすいという傾向はあるだろう。実際の発想は、理系のうちでも自然の観察を主とする分科と人工物を作ることを主とする分科で違い、問題によってはこれは文系と理系との差よりも重要かもしれない。文系のほうも、論理重視、情念重視、数量重視など、問題によってはあいいれない発想の違いがあると思う。しかし、ここでは、人間がもつさまざまな知見のうちで、自然科学 (およびそれと類似の論理構成をもつ一部の人文社会科学)の現在の到達点の知見をとくに重視しないか、重視するか、を軸にとって考えたい。

「リベラル」対「保守」は、現代(おそらく1980年代以後)アメリカ合衆国の政治の主要な対立軸を示すキーワードになっているが、ここではその意味ではなく、もっと本来の意味で、「リベラル」とは同じ社会に違った価値観をもつ人が共存することが望ましいとする考えかたであり、「保守」とは国や地域社会が統一された価値観をもつことが望ましいとする考えかただ、と考えたい。

もう少しよく考えてみると、「リベラル」「保守」以外に「革新」があるので、この軸はさらに2つに分けるべきなのだ。主要な軸は「リベラル」対「価値観統一」で、その後者の考えが、統一される価値観が伝統的なものか新規なものかで「保守」対「革新」の軸に広がるのだと思う。しかし、ソ連という体制が既成事実となって以後は何が「革新」かがわかりにくくなり、ソ連崩壊後はさらに混沌としているので、ここでは「保守」対「革新」の軸をたてるのをやめて、「価値観統一」を仮に「保守」と表現しておくことにする。

Togetterの話題の重要な部分が、差別問題と、歴史修正問題だ。これはいずれも必ずしもリベラル対保守の対立ではない(保守どうしの対立かもしれない)が、暴力に至るのを防ぐためには、価値観が対立する複数の立場があることを認めるリベラルな態度が必要だ、とは言えそうだ。この件にはわたしはこれ以上深入りしない。

- 文系リベラル 対 理系リベラル -
Togetterの話題の中に、Sokal事件があった。わたしは「現代思想」1998年11月号特集「サイエンス・ウォーズ」を新刊で読んで知ったのだった。(わたしにとってこの雑誌はふだん「文系的」すぎて興味をひかないのだが、この号は比較的「理系度」が高かったのだ。)

Sokal事件以前の状況を簡単に言うと、アメリカの大学で「文系リベラル」が元気であり、「理系保守」を批判していた。その批判は「保守」に対するものであったはずなのだが、「理系」への批判になることがあった。そこで「理系リベラル」(むしろ「理系革新」かもしれない)を自認するSokalが「文系リベラル」をたたいた。Science Warsというとき、人によって、この前段をさすこと、後段をさすこと、両方をさすことがあるので、要注意だ。

最近の日本の議論にこれと似た構造があるというtikani_nemuru_Mさんの指摘はもっともだと思った。

科学技術を対象とする人文社会科学研究者による、原子力発電推進体制への批判は、「文系リベラル」による「理系保守」への批判と見ることができる。

他方、「ニセ科学批判者」は「理系」であり、その正面の批判対象は、科学的知見のようであってそうでないもの(あるいは正しいように見えてまちがった科学的知見)を悪用して人々に損害を与える人々であって、「保守」「リベラル」にはあまり関係ない。(リベラルといえども詐欺の自由は認めないのが社会人としてふつうだ。) 彼らから見ると、放射能の害を(標準的科学の知見と比べて桁違いに)強調する言説は(それ自身は善意であっても)、害を除くと称する詐欺に利用されるので、明確に否定しておく必要があるのだ。

「文系リベラル」から見ると、「理系リベラル」は「理系保守」を批判する活動をしないので、「理系保守」の同類に見える。しかし「理系リベラル」は保守扱いされては不満だ。

ここで気がついたのだが、「理系」の人は、科学方法論に沿わないことを科学的だと言うことや、今の科学の本流がまちがいだとしていることを科学的に正しいと主張することに対して寛容でない。「文系リベラル」がこの点に注目すると「理系リベラル」は本物のリベラルではないと見えるかもしれない。しかし「文系」でも、どんな主張にも同等な権利があるとする完全な相対主義者は少ないと思う。

また、科学方法論にもいろいろあるけれども、その多くは、自由な発想で仮説をたてることを奨励するとともに、その仮説を実験その他の方法できびしく検証することを求めるものだと思う。「理系」の人々はふつう、検証されていない仮説を仮説として述べることに関してはリベラルなのだ。しかし、反証されてしまった仮説を正しい知見であるかのように述べることに関しては不寛容だ。(この局面の活動が「ニセ科学批判」として目立つことになる。) 反証がまちがっている可能性はなくはないが、それを主張するためには充分な追加の証拠が必要なのだ。

- アメリカの文系保守問題 -
アメリカ合衆国には、聖書を文字通り解釈して、進化論は正しくないとし、天地創造論あるいはそれを抽象化したIntelligent Design論を教えるべきだとする主張がある。これは「文系保守」に分類されるだろう。(ただし、「文系保守」がすべて宗教重視だというつもりはない。市場経済主義も根強い。)

「理系」(「リベラル」だろうと「保守」だろうと)の立場で見れば、天地創造論は科学的理論ではなく、Intelligent Design論はもし科学的理論と見るとすれば成功していない理論にすぎない。

他方、ここでいう「文系リベラル」のうちには(政治的にリベラルかどうかは知らないが)、価値観の多様性を尊重する立場から、進化論と並行してIntelligent Design論を教えることを支持する人もいるそうだ。Kumicitさんのブログ「忘却からの帰還」の4月7日の記事 http://transact.seesaa.net/article/262890766.html やそれ以前の記事によれば、科学技術社会論Steve FullerさんがIntelligent Design論を支持している。

また、アメリカの政治文化が二極化してしまったので、「理系保守」は「文系保守」と公然と対立するのを避けるようになってしまったようだ。

地球温暖化に関する科学までがこの構造に巻きこまれた。温暖化抑制のために経済活動への政府の介入が必要だという政策的主張が、アメリカの政治の意味で「リベラル」とみなされるのは無理もない。しかし、(人間社会は持続可能であるべきだという、終末論者を除けば常識的な価値判断と組み合わせると)そういう政策的主張をもたらす「化石燃料を燃やすことによって排出される二酸化炭素が気温を上昇させる効果をもつ」という科学的知見までが「リベラル」とみなされるようになってしまった。「文系保守」はこれを否定する科学的知見らしいものを振りかざすことがあるが、それは「理系」の目で見ればすでに反証された説だ。「理系保守」が「保守」であろうとすればこの話題では沈黙するしかなくなっているようだ。

ほかの国にも影響が及ぶことはあるが、これはアメリカ合衆国に特異な問題だと思える。

- - -
なお、日本の「文系保守」の価値観は統一性がなさそうだ。親アメリカ(あるいは「グローバリゼーション」主義)とアジア主義国粋主義の対立もある。望ましい時代精神を求めるところが、高度成長期なのか、近代国家形成期なのか、江戸時代なのか、古代なのかもさまざまだと思う。相対的に多いのは、明治憲法体制はよかったとする人々だろうか? 「理系保守」のほうはそこまでさかのぼらずに高度成長期の与党自民党・野党社会党体制がよかったとする人が多いのではないか?

- - -
[2012-08-04補足] この文章で使った「文系・理系」「リベラル・保守」という用語はこの文章限りの臨時のラベルであって、広く使われてほしい用語として提案するものではなく、自分でも同じ意味で使い続けようと考えているものではない。