「方丈記」(鴨 長明, 1212年) の最初の2文はとても重要なことを言っていると思う。このことをわたしは2003年に[英語のウェブ記事]に書いた。
しかし、その2文についてのわたしの記憶が正確でなかったようで、いま [2012年] になって英語の記事を訂正した。ただし、写本間のくいちがいもあるようで、一つの正しい原文が定まらないのかもしれない。ここではひとまず「青空文庫」に採用されたものに従っておく。
それをどういう文字で書くかも迷うところだ。昔の人が書いたとおりの文字づかいがわかったとしても、それを今の人が見て正しく読めないかもしれない。(現代語訳ではなく文字づかいだけ)現代表記にしたものも奇妙な感じがする。かなづかいに関しては、江戸時代に平安時代初期(「方丈記」の時代よりも昔)の音の区別を復元推定した「歴史的かなづかい」を標準とすることもできるが、漢字づかいの古典標準はひととおりに決まらない。迷ったすえに、未知の言語であるかのようにローマ字表記しておくことにする。ただし音韻の判断は歴史的かなづかいを基本としている。【濁音、たとえば「d」は「nd」、「b」は「mb」のような発音だったかもしれないが、ここでは発音ではなく音韻の表記としてそれぞれ1字で書いておく。】
Yuku kafa no nagare fa tayezu site, sikamo moto no midu ni arazu.
Yodomi ni ukabu utakata fa, katu kiye, katu musubite, fisasiku todomaru koto nasi.
「方丈記」全体としてはおもに人間社会のことを述べており、この書き出しの部分も、人間社会についてのたとえ話なのかもしれない。しかし、この部分を取り出して、自然界に関する認識としてみることができると思う。
2つめの文を先に考えてみる。【ただし、「yodomi」という語があることをわたしは長らく気づいていなかったので、それについてはきょうの段階では何も述べることができない。】「Utakata」は現代は使われないことばなので、「泡(あわ)」のことであると説明してもらう必要がある。「Katu ... katu ...」も現代では使わない表現だが、文脈から意味の想像がつく。水面にいくつもの泡があり、そのうちには消えるものもあれば、新しくできるものもある。同じ泡がずっと持続するわけではない。明らかに、ここで起きていることは「非定常」なのだ。
【「Todomaru」は、すなおに考えれば、同じ位置を保つ、ということなのかもしれない。わたしには、流されて位置が変わっても泡でありつづけることまで含めて「todomaru」と言ったのではないかという気がするのだが、それは思い入れすぎかもしれない。】
この部分を英語で表現してみると次のようになる。ただし、大学院生時代に、英語で読むものは地球流体力学、地球流体力学について読むものは英語、という教育を受けた人にとって自然な英語である。
Bubbles float in the backwater. Some are dissipated, some are generated, and none are stationary.
さて、1つめの文。
大まかな意味をとるにはさしつかえのない迷いだと思うのだが、最初の「yuku」はどこにかかるのだろう? わたしはこれまでに「ゆく川」だけをキーワード扱いしてしまったことがある。そのときは「ゆく」のは「川」だと思っていたのだが、むしろ「川の流れ」ではないだろうか? 「ゆく...流れ」なのではないだろうか? いずれにしても、この「yuku」があるのとないのとではどう意味が違うのだろう?
ともかく大事なことは、川を流れる水のうち、同じ場所にある水に注目すると、物体としては(現代科学の概念を持ちこめば、水分子としては)違うものが、次々に入れかわっているということだ。
このようなことは、古代ギリシャの西暦紀元前500年ごろの哲学者ヘラクレイトスも言っている。これは偶然の一致だろうか。ヘラクレイトスのことばが、たとえば西暦紀元ごろのガンダーラで、仏教にとりこまれて日本に到達したのだろうか。あるいは、やはり西暦紀元前500年ごろに仏教を生み出した古代インド思想がギリシャにも影響をおよぼしたのだろうか。
しかし、ヘラクレイトスの理屈は、同じ水がとどまらないのであれば、川も同じとは言えない、というものだ。他方、長明は、川の同一性を疑ってはいない。
ただし、長明にとって、川は、「永遠に変わらないもの」でもなかったはずだ。長明が見ていただろう鴨川の流れが、それよりも400年あまり前に、平安京の造成に伴って(大がかりな流路変更が行なわれたという説はまちがいらしいが、いくらか)改修されていたことは、長明の当時も明らかだったと思う。川もまた有限の時間スケールをもった(仏教用語を使えば「無常」な)ものだ。しかし、泡に比べればずっと長い時間スケールを持っている。
そして「tayezu」という二重否定的表現 (文法的二重否定ではないが「絶える」という現象が否定的なので)が使われている。川を流れる水の量は、時間とともに変化してもよいのだ。しかしそれが極度に小さくなれば「流れが絶える」ことになるし、極度に大きくなったら川としての同一性を失ってしまうだろう。どのくらいが極度かは、その川のまわりで生活する人の主観に依存するかもしれない。ともかく、ある有限の範囲に含まれることが要件なのだ。
この「tayezu」に対応する英語や日本語名詞の表現がなかなか見つからなかった。しかし、あるとき「sustainability」(持続可能性)に関する議論を読んでいて、まさにこれだと思った。ただし「可能性」ではなく「持続していること」なので「持続性」のほうがよい。ただし英語では動詞は「sustain」でよさそうだが名詞では「sustainability」よりも適切な単語に思いあたらない。語源からすると「sustenance」なのだが、これでは意味が通じそうもない。
そこで、最初の文を次のような英語にしてみた。ただし「yuku」は訳せていない。
The river flow sustains, yet the same water never remains.
「Sustain」はふつう他動詞なので、「is sustained」とするべきなのかもしれない。何か別のものによって保たれているというよりは、それ自体を保っていると考えれば「sustains itself」という表現もありうるだろう。しかし、たまたまだが、このように自動詞あつかいすると韻を踏んだ形になるので、ひとまずこうしてみた。
【[2024-04-19 補足] やはり sustain を自動詞としてつかうのは無理かもしれない。韻の関係で語順がかわるのは意味がとおればゆるされるだろうから、sustain は他動詞として、目的語 itself を前においてみる。
The river flow itself sustains, yet the same water never remains. 】
また、物理用語で考えれば、川は、物質の出入りを含む開いた系(システム)であり、また厳密な定常状態にはないが、泡の時空間スケールから見れば定常な環境とみなすことができる「準定常系」なのだ。